8/12/2018

えっ、墓参りって、亡くなった人のためじゃないの!?

▼お盆に墓参り

それだけでいいの?▲ (お気に入りの月刊誌から)


今からできる恩返し
 本来の仏教の、すすめは


お盆の季節といえば、「お墓参り」ですね。亡き親や先祖をしのび墓前にぬかずいて心静かに手を合わせる。

ところがそんな光景も昨今は変わってきました。墓参りを代行業者に依頼する人や、墓を処分してしまう「墓じまい」をする人も増えています。さらに遺骨を宅配便などで業者に送って納骨する“サービスも登場しています。 

ライフスタイルの変化とはいえ、こうした仏事(ぶつじ)の簡略化に戸惑いを覚える人も少なくないでしょう。
墓参りなど仏事に関する質問がよく寄せられます。

大切な人の死とどう向き合えばいいのか、本来の仏事の在(あ)り方について、仏教を説かれたお釈迦さま(約2600年前、インドの方)はどのように教えられているのでしょうか。 









 ~まずは、現状レポート~

スマホで簡単? ======               
イマドキのお墓参り事情
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「帰省ラッシュを避けたい」「遠くまで出掛ける時間がない」。そんな声から登場してきたのが「墓参り」の代行業です。 依頼した業者からは、墓を丁寧に掃除し生花を供えた写真が送られてきます。自治体の中には、この「墓参り代行」を 「ふるさと納税」の返礼の1つに加えているところも少なくありません。

また、墓の管理が難しくなり、墓を処分してしまう「墓じまい」が増える一方で、スマートフォンで墓参りのできるサービスも現れました。あらかじめ登録した故人との思い出の場所などでスマートフォンをかざすと、画面に遺影が現れ、その画像を墓代わりに手を合わせて故人をしのぶことになります。

さらに、遺骨を処理業者に宅配便などで送って納骨する「送骨」や、業者が遺骨を引き取りに来る「迎骨」といったサービスもあります。

 簡略化する仏事  

   戸惑いの声も


こうしたビジネスが広がる背景には、形骸化(けいがいか)した「仏事」に対する、次のような疑問や不満があるのではないでしょうか。

「お経を聞いても意味はチンプンカンプン。これで本当に死んだ両親が喜んでくれるのだろうか?」

「貴重な時間やお金をかける価値があるのか?」


「でも仏事なしでは、心の整理がつかないし・・・・・」
などです。

では、何をすることが真の供養となるのか?

自分の心の整理をつけるにはどうすればいいのか?

仏教ではどう教えられているのでしょうか。

親が子に望むことは? 


亡き親や先祖のことを考えた時、まず大切なのは、親や先祖が、私に望んでいることは何かということでしょう。
それによって供養は変わってくるからです。

親が子に望むことといえば、
「いい学校に入り、いい会社に入って出世してほしい」
「結婚して温かい家庭を築いてほしい」
「とにかく健康でいてほしい」など様々に浮かんできます。

しかし、煎(せん)じ詰めれば、

「子供たちよ、正しく生き、真の幸福になってもらいたい」

これに尽きるのではないでしょうか。
ならばこの願いに応えてこそ、親や先祖の恩に報いることになるでしょう。

幸福に2とおり


では、私たちが<真の幸福になる>ためには、どうすればよいでしょうか。
この答えを明らかになされたのが、2600年前、 インドで活躍なされたお釈迦さまなのです。

お釈迦さまは、幸福について、「相対の幸福」「絶対の幸福」の2とおりあると教えられています。

相対の幸福とは、例えば、好きな人と結婚できた喜びとか、マイホームを手にした満足など、金や地位、名誉、健康などによって得られる喜び、満足。つまりは日々、私たちが求めているものです。

ただ、これらの幸せに共通するのは、 「続かない」ということです。 やがては色あせ崩壊し、悲しみや苦しみに転じてしまいます。かりにしばらく続いたとしても、全て失う時が来ます。それは、人生の終末です。天下を統一したあの豊臣秀吉も臨終には、

 「露(つゆ)とおち 露と消えにし 我が身かな 
難波(なにわ)のことも 夢のまた夢」

という辞世を残しています。太閤の栄華でさえ、露のようにはかないものだった、という嘆きです。 こんな、今日あって明日なき無常の幸福は、真の幸福とはいえません。

仏教に説かれる絶対の幸福 ====

===親や先祖が最も喜ぶ身に 

では、 絶対の幸福とは何でしょう。
これは仏教にしか教えられていない幸福です。

絶対とは無上、最高不二のことであり、どんな事態が起きても決して壊れない安心、満足、喜びのことです。最悪の死に直面しても変わらぬ安心、満足なので、他の障害によって動乱することは毛頭ありません。

誰もが 「人間に生まれてきてよかった」という生命の歓喜を味わえますから、絶対の幸福こそ、私たちが求める真の幸福といえるのです。お釈迦さまはそれを次のように仰っています。

(意訳)
「生まれ難い人間に生まれてきてよかった。
聞き難い仏法を聞くことができてよかった。
今生(こんじょう)でこの幸福になれなければ、
一体いつなれるというのであろう。
絶対の幸福になるチャンスは、今しかないのだ」

(原文)
「人身受け難し、 今 已(すで)に受く。
仏法聞き難し、今 已(すで)に聞く。
この身 今生に向って度(ど)せずんば、
さらにいずれの生に向ってか, 
この身を度(ど)せん」 

仏法を聞き、絶対の幸福になったなら、どんな人も人間に生まれてきたことを心から喜ばずにおれなくなり、生んで育ててくだされた親や先祖に、心より感謝せずにいられなくなります。
それが亡き親や先祖の最も喜ぶことであり、その先祖のご恩に報いたことになるのです。

仏法を聞かなければ、絶対の幸福にはなれませんから、「お盆」には、家族・親戚が集まって先祖の恩をしのび、ともに仏法を聞くことが大切なのです。それはお盆に限らず、葬儀や法事など仏事全般についてもいえることです。


では、その絶対の幸福とは、どんな幸せなのか。
また、どうすればなれるのでしょうか。本当の仏教を極められた鎌倉時代の親鸞聖人(しんらん・しょうにん)が明らかになされていますから、詳しくは「こころの宝石」(26ページ)でご紹介しましょう。

巻頭特集、終わり

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<出典>
月刊誌「とどろき」8月号 巻頭特集(2018H30年)
(株式会社 チューリップ企画)

(一部、改編)
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