書、木村泰山
よく知っている方のメルマガです。
差出人: 菊谷隆太
日時: 2018年8月30日 8:21
宛先: simizu.h
件名: No.1850
【さくらももこさんの死去になぜ多くの人が感傷的な思いにかられたのか】
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今年は暑すぎたせいか、蚊に悩まされることがありませんでした。
寝る時の蚊は気になってしまうタイプなので、そこはよかったです。
【今日の仏語】は『無常』です。
==============【一からわかる仏教講座】
さくらももこさんの訃報に感傷的な気分になりました。
さくらももこさんとは何の面識もなく、
どんなお顔なのか、今回初めて知った程度なのですが、
漫画「ちびまる子ちゃん」は、
著者であるさくらももこさんの子供時代の話しだとは知ってはいるので、
今回の訃報は「ちびまる子ちゃんが死んでしまった」ということなのだと、
胸に迫るものがありました。
これはおそらく私だけでなく、
日本中の多くの人が同じように、
しんみりした気持ちになったのではと思うのです。
「まる子」が「お姉ちゃん」と喧嘩する姿や
「お爺ちゃん」と遊ぶ姿がテレビに映るのも
「この子の将来は、53歳の時に乳がんで亡くなるということなんだな」
と思うと、何か切なさを感じてしまいます。
そしてその訃報を、まる子の家族やクラスメイトはどう聞くんだろう
と思うと、なんとも言えません。
これは映画「タイタニック」の時も感じたことです。
「タイタニック」で観る船内の豪華絢爛ぶり、二人の燃える恋愛も、
すべて冷たい海の底に沈むんだなと、
結末を知っているが故の、切なさ、哀感が漂っていました。
考えてみれば「ちびまる子ちゃん」や「タイタニック」だけでなく、
今勝った負けた、得した損した、と騒いでいる自分も周りも、
みんな死んでしまう人ばかり。
何をムキになっているのか、
「あわれというもおろかなり」と説かれる仏教の言葉が身に沁みます。
毎週日曜日の「ちびまる子ちゃん」は、
すったもんだの出来事の最後に、ナレーションの
「○○と思うまる子なのであった」
と締めくくることが多かったと思うのですが、
最後、53歳で終わりを迎えるにあたって、
まる子ちゃんはどう思ったんだろうな、とふと考えました。
その時の思いを、エッセイに書くことはもうできないのですが、
「○○と思うまる子なのであった」と、
何か思われたことでしょう。
あなただったらその時、何を思うでしょう。
何を暗いことを言い出すのかと眉をひそめる方もあるかも知れません。
しかし「死」という厳粛な事実を、厳粛に受け止めるのが仏教なのです。
『無常(死)を観ずるは、菩提心の一なり』
「死にゆく存在である我が身を見つめることは、
いたずらに暗く沈むことではなく、
今の生を日輪よりも明るくする第一歩だ」
と説かれています。
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執筆発行:菊谷隆太