4/02/2018

珈琲とえびせんと、読書(『ふたつの、あわれみ』)

おはようございます。今朝は、「かっぱえびせん」とコーヒーです(^O^)
ページをめくる手が「止まりません」
『憐れみ、いとおしみ、大切に、、』『・・・かわいそう、なんとかしてやりたい』

いま、ずっと古典に親しんでいます(歎異抄、たんにしょう)薄い本で、18章。その4章から。

<意訳>
慈悲といっても、聖道仏教(しょうどう・ぶっきょう)と浄土仏教(じょうど・ぶっきょう)では違いがある。
聖道仏教 (しょうどう・ぶっきょう) の慈悲とは、他人や一切のものを憐れみ、いとおしみ、大切に守り育てることをいう。
しかしながら、どんなに努めても、思うように満足に助け切ることはほとんどありえないのである。

※聖道仏教=天台、真言、禅宗など、自力で修行に励み、さとりを開こうとする仏教。 
※浄土仏教=阿弥陀仏の救いを説く仏教。 

それに対して、浄土仏教 (じょうど・ぶっきょう) で教える慈悲とは、はやく弥陀(みだ)の本願(ほんがん)に救われ念仏(ねんぶつ)する身となり、浄土で仏のさとりを開き、大慈悲心を持って思う存分人々を救うことをいうのである。

※弥陀の本願=阿弥陀仏のお約束。誓願ともいう。 
※仏のさとり 五十二あるさとりの中の、最高のさとりのこと。

この世で、かわいそう、なんとかしてやりたいと、どんなに哀れんでも、心底から満足できるように助けることはできないから、聖道(しょうどう)の慈悲は、いつも不満足のままで終わってしまう。
されば、弥陀(みだ)の本願(ほんがん)に救われ念仏(ねんぶつ)する身になることのみが、徹底した大慈悲心なのである、
と(親鸞、しんらん)聖人は仰せになりました。 



<原文> 歎異抄(たんにしょう)4章

慈悲に聖道(しょうどう)・浄土(じょうど)のかわりめあり。
聖道(しょうどう)の慈悲というは、ものを憐れみ愛しみ育むなり。
しかれども、思うがごとく助け遂ぐること、極めてありがたし。

浄土の慈悲というは、念仏して急ぎ仏になりて、大慈大悲心をもって思うがごとく衆生を利益(りやく)するをいうべきなり。

今生に、いかにいとおし不便と思うとも、存知のごとく助け難ければ、この慈悲始終(しじゅう)なし。
しかれば念仏申すのみぞ、末徹りたる大慈悲心にて候べき、と云々

「歎異抄をひらく」(1万年堂出版、2008年3月3日)
歎異抄

◇───────────────────────────────◇

清水弘之(Shimizu Hiroyuki)on  June 10,1960

LINE :hsimizuh
Skype :hiroyuki0610
─────────────────────────────────◇

0 件のコメント: