8/14/2015

【お盆ノート】

亡き祖父との会話を再構成しました。

ある夏の日のことです。

「じっちゃん、じっちゃんは仏教を聞いているのに、どうしてお盆に墓参り行かないの?」

「仏教を聞いているからだ」

「??。意味わからないよ」

「無祈祷が本来の仏教なんだよ。供養が目的でない」

「でも、お盆って、仏教だろう?」

「確かに、釈迦の教えの仏教には、そういう文字が見える」

「そういう文字?じゃあ、どこにお盆って書いてあるの?」

「お前も知っての通り、2600年前にインドで説かれた釈迦の教えを今日私たちが知ることが出来るのは、その記録が文字に示されているからだ。それをお経とか経典とか言うんだが、その数は、7,000巻以上になる」

「そんなにたくさん!? 何年かかって説かれたの?」

「釈迦はもともと一国の太子であったが、35歳12月8日に最高無上の仏という悟りを開かれてから、80歳2月の8日に涅槃の雲にお隠れになるまでの45年間、釈迦が仏として教えられたものなんだよ、仏教は。」

「45年間で、7,000巻以上!。。。きっと毎日のように話をされていたんだね」

「説法の記録の一つに、『仏説 于蘭盆経』というよく知られているものがある」

「ぶっせつ、うらぼん きょう? お盆にうらとか、、表とかあるの?」

「(笑)そうではない。ウランバナ、と発音される古いインドの言葉を、後世の翻訳家が漢字に当てはめたものだ。その一文字が『盆』だ」

「なんだか、拍子抜けするね。お釈迦様は、そのお経を、死んだ人に捧げる儀式のために教えられたの?」

「数百年の間、仏教が誤って伝えられた結果、日本人に限らず多くの人がそのように仏教を理解している事実がある」

「仏教は、死んだ人のものというのは間違いなの?  だから、さっき死者の供養が目的でない、と言ったの?  でも、お経は、死んだ人が一番喜ぶものとテレビで有名な僧侶が言っていたよ」

「誰が言おうと7,000巻の経典に根拠のないものは、仏の教えではないんだよ。それに考えても見てごらん。釈迦の、いわば講演を記録したものが、お経だ。どこの世界に、死んだ人を前にして講演会を開くものがいるかな?」

「そう言われると、分かるね。2600年前のインドに、もしビデオカメラがあったら、ビデオに録画されたろうからね。お経のかわりの記録方法として。その時、死者の群れの前でお釈迦様が話をしていたら、ぞっとするね」

「そのとおり。まず死者が相手、というのが深い迷い。そして内容も死者を救うもの、というのも迷い。仏教に対する誤解を深めた。事実、お経の最初には、このような人々が釈迦の話を聞きに来ていたと人物名が書かれている。内容についても、それを聞いた人々自身が喜んだという事実が分かる」

「死んだ人のため、というのは大きな誤解なんだね。こんなことを知ったら、みんなビックリするね。だけど、思い出したよ。昔だれかが、このお経の中に、亡くなった人を救ったとか、盆踊りの語源があるって言っていたよ。ぼくも、『迷い』が深いのかな(笑)」

「どの経典にもいえることだが、その1巻の経典の真意は、残りの7,000巻以上のお経を1巻残らず読み破り、理解する力のある人でないと解明することは出来ないのだよ」

「むずかしいことは分からないけど、亡くなった人をお経で救うことは、出来ないの?」

「釈迦在世の当時にも、そのように誤解する人が多くあったようなんだよ。でも池に沈んだ石の周りで、『石よ、浮かんで来い。石よ、浮かんで来い』と、どれだけ一生懸命に称えても、石は浮かんで来ないだろう。お釈迦様は、『石は自らの重みで沈んで行ったのだ』と教えられている」

「じゃあ本当にお釈迦様は、死者を楽にする儀式をされなかったの?」

「釈迦は一度も葬儀を行ったことはない。ウランバナの意味は、逆さまな考えに迷い、苦しみ、自ら不幸になっている人、ということなんだよ。そういう生きている人を相手に、なぜ苦しくても生きなければならないのか、生まれてきた意味、生きる理由という巨大なテーマを明らかに説かれたのが、7,000巻の経典の目的なんだよ」

「じゃあ、ボクは、そんなに苦しんでないから、必要ないね」

「それは、どうかな。釈迦が言われている、『ウランバナ』とは、実は全ての人、全人類のことなんだよ。幸せの絶頂にある新婚カップルから、不幸の連続で、今死のうとしている人まで。例外なく、人間なのだから。当然、お前も『ウランバナ』なんだよ。亡くなった人々を忘れずに、懐かしく思い、敬い、追悼、哀悼することは決して悪いことではない。そのことと仏事は違うんだよ。それとは別に急がなけれならない事がある。お前はまだ知らないだけなのだが。真剣に仏教を聞くとよいよ。人間だから仏教を聞かなければならないと、ハッキリするから」



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