9/23/2017

小説 時空を超えて

私は、1960年6月に生まれた。 1860年、3月、江戸城、桜田門前。 朝から、雪が降っていた。 錆びた血の匂いのあと、それが 桜田門外の変として世に騒がれた。 あれから100年。 わずか100年前、刃の下に龍馬らが、生きていた。 それでも、あっという間に半世紀がたち、2017年夏 テレビでは高校野の決勝戦をやっている。 埼玉代表が勝つか、広島代表が勝つか、14対4、9回ウラである。 100年も、1000年も、一瞬に過ぐる。 1260年の夏、(鎌倉時代) 親鸞聖人(しんらん・しょうにん)は、よわい九十に近づかれ、額に大粒の汗をかきつつ、休み休み筆を執られていた。 切ない思いが、胸に広がる。 「何とか、ひとりでも多くの人に、知らせねば」 太陽が、鬱蒼と茂る木立の群れに差しかかる頃、少し風が吹いた。 みやこの、このあたりに人家の喧騒は、ない。 「源蔵どのは、どうされておられるか」 休める筆のあいだに、ふと思われた。 あれから久しいときが、流れていた。 源蔵は、だいぶん腰が曲がり、畑仕事もままならなくなっていた。 生まれながらに、不自由なところが、あった。 肉体にではない。 なにか、こう、幼い頃より、家に引きこもりがちであった。 親も親戚も心配して、なんやかやと手を 尽くしたが、ダメだった。 そのころから、源蔵は、夜、星のまたたきを見るのが好きだった。 薪の貧しい風呂のあと、さっぱりとした気分で物思いにふけるのが好きだった。 自分の身の上のこと、まだ見ぬ青春の日々の予感を、目の前の小さな虫に話しかけていた。 虫は、まるで源蔵の言葉が分かるかのように、じっとしていた。 長じて畑仕事を生業とするようになったが、星のまたたきを見るのも、風呂のあとの物思いも変わらなかった。 源蔵は、だいぶ いぜん、親鸞さまからお聞きした話を、たどたどしく思い返していた。 。。。体を、赤鬼と青鬼に喰いちぎられた男の話だったような。 いや、赤鬼が食いちぎり、青鬼が、別の肉体から持ってきた腕や足を男に継ぎ足してやっていた。赤鬼が腕を喰いちぎれば、青鬼が新たに腕を付けてやる。足なら、足、内臓なら内蔵。 そうやって、その男の体の隅々まで元の男のものは、なくなっていた。すべて青鬼が用意した別々の人間たちの体の塊となった。 男は、この赤鬼と青鬼の闘争が終わったあと、町に逃げ帰った。 大通りの真ん中で、男は、叫んだ。 「わたしは、だれでしょう!わたしは、だれでしょう!」 源蔵は、幼い頃に見た屍人(しびと)を思い出した。 屍人は、肉の塊として源蔵の目に焼き付いている。 幼心に、源蔵は、自分も屍人になるのか、とぼんやりと思った。 「屍人になっても、わたしは、わたしなのだろうか。 わたしは、何になるんだろうか。屍人のわたしと、いまのわたしと、どこが違うのだろうか」 源蔵は、たどたどしくお話や幼い頃の記憶を思い出し、たどたどしく思いを巡らしていた。 もうあたりは、虫の音もやむほどに、夜は更けていた。 セミの命は一週間とも二週間ともいわれる。 人間の命は、人生五十年から、平均寿命七十、八十とまでなった。 セミの一生と、人間のそれと、どこが違うか。 かしましく鳴きたてるセミと、かしましく時間を好き好きに消費する人間と。 源蔵は、床についても、眠れなかった。とりとめのないことが、思われた。 人工知能が注目され、iPS細胞が実用化されても、この深い闇には薄日すら、ささない。 屍人の向かう壁の向こうは、ようとして知れない。 セミの命は、二週間後、どうなるのか。残るのは、セミの抜け殻。セミは、どうなったのか。 人間、八十年の生涯を閉じたあと、どうなるのか。 源蔵の足元の土間から、すきま風が入ってきた。 狭い住居に、源蔵のとりとめのない思いだけが、あちこちに散らばった。 源蔵の、じいさんは、蔵の中で倒れているところを見つけられた。 みなに運ばれ、床に置かれた。 もう、息は、なかった。 源蔵が見た屍人だった。 「じっちゃん」腕をさわったが、生きているようにあたたかかった。 みな、何事もなかったように、焼き場の話に真剣な眉を寄せていた。 じっちゃんが、床の上にいるのに、悲しんだり、声をかけていたのは、しばしのことで、みな、話の輪に加わっていった。 まんじるともせず、源蔵ひとり、じっちゃんの傍にいた。 今でも、幼心に刻まれた感覚が、ここにあった。夜の闇がいっそう感覚を研ぎ澄ませた。 畑仕事を、つい今しがたまでしていた じっちゃんと、今、話の輪にいる父母やおじおばと、どこが違うのか。 自分だけが、中づりになったようだった。
                                        「じっちゃん、焼いちゃうの?」 父親は、小さくうなずいていた。 源蔵は、その意味を知って、まだじっちゃんのそばを離れられないでいる。 焼かれる前に、じっちゃんと一緒にいたかった。 動かなくなったじっちゃんの、どこかに、まだじっちゃんがいると信じていた。 「焼くな!」源蔵は、周りの大人たちを困らせた。 「焼いたら、じっちゃんが、いなくなっちゃう」 泣きじゃくる源蔵に声をかけた叔父の六助は、 「もう、じっちゃんは、いないんだよ」 ここにいるじゃないか。いるのに、いないって、なんなんだよ。 源蔵は腹立たしかった。 「焼いたら、じっちゃんの居場所がなくなる!」 源蔵は、夜の睡魔に、記憶の破片の海をただよった。 「そういう考えは、間違いなのだよ、源蔵さん」 親鸞さまの声が思い出された。 「源蔵さん。源蔵さんは、おじいさんのなかの、なにかが残ると思うておるのだろう」 「はい」 「源蔵さんも、自分が死んだら、自分のなにかが、残ると思っているのだろう」 「はい」 「それは、正しい。じゃがなあ、残るのは、そなたの今のこころの内でないのだよ。魂でもない。霊魂でもない」 「じゃあ、盆には、じっちゃんの何が戻ってくるんで?」 「屍人が、盆に戻るとか、魂だとか、幽霊だとか、みんな迷信じゃよ」 「へ? おいら、分からなくなってきた。じゃあ、親鸞さま、いったい何が残るんで? 」 「無になるわけでないし、残るものはある。それは、確かなこと。この親鸞が勝手に言っていることではない。お釈迦様(仏)が、仰っていることじゃでな」 「でも、みんな信じてますよ。盆には、じっちゃんも戻ってくるって。それが仏さまだって」 「みんなが、信じていることでも、間違いは間違いじゃな。 なあ、源蔵さん、河面に浮かぶ泡つぶが、ぱっと出来て、ほんのしばらく浮いて、ぱっときえるじゃろう」 「おいら、見たことある」 「セミの一生も人間の一生も、あれと同じじゃ。じゃがな、河はとうとうと流れて、消えることも、途切れることもない。」 「その、途切れることも、消えることもない、残るものって、何なんですか。魂だと思っておりましたが」 埼玉代表が勝った。真紅の優勝旗が、この県にもたらされるのは初めてのことと、アナウンサーが言った。 投手の球筋もよかった。 速球が、バットをかすめてミットにおさまる様は、見ていて気持ちがいい。 硬球が、スタンドに吸い込まれる前にたてる金属音も、快感だ。 甲子園にいる選手も、応援する群衆も、テレビの映像に目をそそぐ数知れぬ人々も、やがて日々の生活に戻ってゆく。 毎年の風物詩が終わった。 人間は、肉体がずっと動かず、電柱柱のように立って生涯を過ごすわけではない。 野球に夢中になる青春群像もあれば、未来の実業家を目指してチャレンジを繰り返す者もいる。 地球上、七十億に、それぞれの人生があり、それぞれの日々があることだろう。 それぞれの肉体は、それぞれの人生を生きる、それぞれの動きをする。 そのビック・データを集計したら、どんな群像模様が浮かび上がるのだろう。 ビックデータの数値化される元は、行動だろう。 人は、何かしら、行いをする。種をまく。 努力は人を裏切らないと信ずるからこそ、行動を起こす。 まいた種は、必ず生えるが、まかぬ種は、決してはえない。 たとえ電信柱のように、じっと動かず、無言で過ごしていても、心は動く。 気の毒な病のために、一生、伏したままで過ごす人もあろうが、こころの種まきも、種には違いなかろう。 人は、目先のことに一喜一憂し、目を奪われる。 源蔵もそうだった。若い女の肉体を愛した。 ある静かな秋の夜、源蔵はとなり村の、はるみの住み屋に向かっていた。 頭上には満天の星があった。 かさかさと秋の風が鳴らす森の木々の葉も、これから起こる源蔵の至福の空想を邪魔しなかった。 歩みが早くなる。闇の中に、目は慣れて道を見つめているが、頭のなかは、はるみの すいつくようなからだで、いっぱいだった。 終わったあと、腹が減った。土間にある、何やら分からぬ食べ残しを、暗闇のなかで貪った。 肉体も、食欲も満たし、夜の道をもとに戻った。 そうやって、十代、二十代、三十代、四十代、五十代を源蔵は過ごしてきた。 まさに、浮き草暮らしだった。 盗みもしたし、寝てばかりで暮らした日々もあった。たまに働きに出ても、うまくいかなかった。 あるとき、村役が、源蔵の組み上げたコメ俵を全部、元に戻した。 源蔵の目の前で、無言で、源蔵の働きを否定した。 源蔵は、いいしれぬ怒りで、村役に罵声をあびせかけそうになった。 かろうじて、踏みとどまったが、心中は穏やかではなかった。 その悔しさに、はっと気づくと土間からすきま風が相変わらず入る寝床に、夢だったかと目を覚ました。 まだ日の昇らぬ少し前の漆黒に目が慣れてきた。ぼんやりとした頭で、眠りにつく前の波間にただよった記憶の断片が戻ってきた。 一生は過ぎ易(や)すし、だなあ、と源蔵は覚えたての言葉を思った。儚き人生を思い返すと、胸が苦しくなった。 こうやって生きて、やがて死んでゆくのか。 俺は、セミに生まれなかった。人間に生まれた。セミと俺の違いはなんだろう。 真面目に生きた時期もあった。村役や同胞とうまく付き合えていたこともあった。 だが、しばしば心は、思ってはならぬことを思っていた。やってはならぬこともした。暴言も吐いた。 それらが、今、床の中の闇に居る源蔵に、ひとつひとつ、迫った。 「ああ、あれもみんな、おれのまいたタネなのか」 セミの抜け殻になったあと、残るのは、きっと、まいたタネなんだろう、と源蔵は初めて得心した。 「セミの一生も人間の一生も、河面に浮かぶ泡つぶと同じじゃ。じゃがな、河はとうとうと流れて、消えることも、途切れることもない。」 あの時の、親鸞さまの言葉が耳を震わせた。 作:しみずひろゆき ~参考文献~ ※「光に向かって123のこころのタネ」(1万年堂出版) https://www.10000nen.com/books/978-4-925253-83-3/ より 「この身体は、誰のものですか 未来の医学に問われるもの」 ※「教行信証」親鸞聖人 より「有無の見」 #小説 #オリジナル

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