土曜日。さっき、家内とバトミントンをやって帰宅。コーヒーをいれ、本をひらいています。
最もよく読まれている「古典」は、『聖書』と『歎異抄(たんにしょう』だそうです。
(『 星の王子さま 』は、『聖書』より多くの人に読まれているとの説もあるそうですが。。)
(歎異抄 第三章 )~有名な悪人正機(あくにん・しょうき)を言われたもの~
・正機(しょうき) :正客、 本当の目当ての人。
※意訳※ (原文、末尾写真)
善人でさえ浄土へ生まれることができる、ましてや悪人は、 なおさらだ。
それなのに世の人は、つねに言う。悪人でさえ浄土へ往けるのだ、 ましてや善人は、なおさら往ける。
このような考えは、一見もっともらしく思えるが、 弥陀(みだ)が本願を建立された趣旨に反するのである。
*弥陀(みだ)= 阿弥陀仏(あみだぶつ)のこと。
なぜかと言えば、阿弥陀如来(あみだ・にょらい)は、すべての人 は、「煩悩(ぼんのう)の塊(かたたまり)」であり、助かる縁なき極悪人 と見ぬかれて、「我にまかせよ、必ず救う」と 誓われているからだ。
それなのに“自分の励む善で生死(しょうじ)の一大事を解決できる”
と自惚れている善人は、 極悪人と見極められて建てられた本願を疑っているから全幅、弥陀にまかせる心がない。
*煩悩(ぼんのう)= 欲や怒り、ねたみそねみなど、私たちを煩わせ悩ませるもの。
*生死(しょうじ)の一大事=永久の苦患に沈むか、永遠の楽果を得るか、 の一大事をいう。
*生死(しょうじ)の一大事=永久の苦患に沈むか、永遠の楽果を得るか、
ゆえに「弥陀の本願にあらず」。 本願の対象とはならないの である。
だがそんな人でも、弥陀の徹見通りの自己に驚き、生死(しょうじ)の一大事は弥陀にうちまかせて、浄土へ往けるのである。
煩悩(ぼんのう)にまみれ、どのような行を励むとも、到底、 生死(しょうじ)の迷いを離れられぬ我々を不憫(ふびん)に思われ建立されたのが、弥陀の本願。
*徹見=真実を見抜く。
*行=善い行い。善行。
*生死(しょうじ)の迷い= 生まれ変わり死に変わり、苦しみ悩み経巡っていること。
*行=善い行い。善行。
*生死(しょうじ)の迷い= 生まれ変わり死に変わり、苦しみ悩み経巡っていること。
悪人を成仏させるのが弥陀の本意だから “助かる縁なき者”と、他力にうちまかせる悪人こそ、 浄土へ生まれる正客なのだ。
されば、善人でさえ浄土へ生まれるのだから 悪人はなおさらであると(親鸞、しんらん)聖人は仰せになりました。
*他力=阿弥陀仏のお力。
*正客= 本当の目当ての人。
<脚注一覧>
* 悪人正機= 悪人を救うのが、阿弥陀仏の本願、ということ。
*弥陀(みだ)= 阿弥陀仏のこと。
*弥陀(みだ)= 阿弥陀仏のこと。
*煩悩(ぼんのう)= 欲や怒り、ねたみそねみなど、私たちを煩わせ悩ませるもの。
*生死(しょうじ)の一大事=永久の苦患に沈むか、永遠の楽果を得るか、
*徹見=真実を見抜く。
*行=善い行い。善行。
*生死(しょうじ)の迷い= 生まれ変わり死に変わり、苦しみ悩み経巡っていること。
*他力=阿弥陀仏のお力。
*正客= 本当の目当ての人。
※出典※ (意訳、脚注、書)
「歎異抄をひらく」(1万年堂出版、平成20年(2008年)3月3日)
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清水弘之(Shimizu Hiroyuki)on June 10,1960
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