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葬式・年忌法要(ねんき・ほうよう)は
死者のためにならないって?
それホント?
一原文ー
親鸞(しんらん)は父母の孝養(こうよう)のためとて念仏、一返にても申したることいまだ候わ ず
(『歎異抄(たんにしょう)』第五章 )
ー意訳ー
親鸞(しんらん)は、亡き父母の追善供養(ついぜん・くよう)のために、念仏いっぺん、いまだかつて称えたことがない。
葬式や年忌法要(ねんき・ほうよう)などの儀式が、死人を幸せにするという考えは、世の常識になっているようだ。
印度(インド)でも、釈迦(しゃか)の弟子が、「死人のまわりで有り難い経文(きょうもん)を唱えると、善い所へ生まれ変わるとい うのは本当でしょうか」と尋ねている。
黙って小石を拾い近くの池に投げられた釈迦(しゃか)は、沈んでいった石を指さし、
「あの池のまわりを、石よ浮かびあがれ、浮かびあがれ、と唱えながら回れば、石が浮いてくると 思うか」と反問されている。
石は自身の重さで沈んでいったのである。そんなことで石が浮かぶはずがなかろう。
人は自身の行為(業力、ごうりき)によって死後の報いが定まるのだから、他人がどんな経文 (きょうもん)を読もうとも死人の果報(かほう)が変わるわけがない、と説かれている。
読経(どきょう)で死者が救われるという考えは、本来、仏教になかったのである。釈迦(しゃか) 八十年 の生涯、教えを説かれたのは生きた人間であり、常に苦悩の心田(しんでん)を耕す教法だった。 死者の為の葬式や仏事を執行されたことは一度もなかったといわれ る。
むしろ、そのような世俗的、形式的な儀礼を避けて、真の転迷開悟(てんめい・かいご)を教示されたのが仏 教であった。
※転迷開悟(てんめいかいご)= 迷いから覚めて、さとりを開くこと。
今日それが、仏教徒を自認している人でも、葬式や法事、読経(どきょう)などの儀式が、死人を幸せにするこ とだと当然視している。その迷信は金剛(こんごう)のごとしと言えよう。
そんな渦中、「親鸞(しんらん)は父母の孝養(こうよう)のためとて念仏、一返にても申したることいまだ候わず」
の告白は、まさに青天の霹靂(へきれき)であるにちがいない。
ここで「孝養(こうよう)」とは「追善供養(ついぜん・くよう)」であり、死んだ人を幸福にすると信じられている行為のことであ る。
※ ※ ※ ※ ※ ※
四歳で父を失い、八歳にして母を亡くされた親鸞聖人(しんらん・しょうにん)の、両親を憶(おも)う切なさは、いかばかりであったろ うか。亡き父母は、最も忘れえぬ聖人の幻影だったであろう。
そんな親鸞聖人(しんらん・しょうにん)が、
「父母の追善供養(ついぜん・くよう)のために念仏を称えたことなど一度もない」と言われる。無論これは、念仏だけ のことではない。亡き人を幸せにしようとする読経(どきょう)や儀式、 すべての仏事を「念仏」で総称されて のことである。
言い換えれば、
「親鸞(しんらん)は亡き父母を喜ばせるために、念仏を称えたり読経(どきょう)や法要、その他一切の仏事をしたことは 一度とてない」
の断言だから驚く。
「死者の一番のご馳走は読経(どきょう)だ」などと、平然と先祖供養を勧めている僧侶や、当然のようにそれ を容認している世人には、いかにも不可解な聖人の発言であり、" なんと非情な"と冷たく感ずる人 もあるだろう。
だが、誰よりも父母を慕われた親鸞聖人(しんらん・しょうにん)が衝撃的な告白で根深い大衆の迷妄を打破し、真の追善供養(ついぜん・くよう)の あり方を開示されているのが、この章なのである。
※ ※ ※ ※ ※ ※
かつてしたことがないと親鸞聖人(しんらん・しょうにん)が言われる、葬式や法事を本分のように心得ている僧侶らを嘆く 覚如上人(かくにょ・しょうにん)の教誡(きょうかい)を挙げておこう。
「某(それがし、親鸞 しんらん)閉眼(へいがん)せば賀茂河(かもがわ)にいれて魚に与うべし」と云々(うんぬん)。これすなわち、この肉 身を軽んじて、仏法の信心を本とすべき由(よし)をあらわしまします故なり。 これをもって思うに、いよいよ喪葬(そうそう)を一大事とすべきにあらず。もっとも停止(ちょうじ) すべし 改邪鈔(がいじゃしょう)
改邪鈔(がいじゃしょう)
=覚如上人(かくにょ・しょうにん)が邪説を破り、真実の教えを明かされた書。
「私が死ねば、屍(しかばね)を賀茂河(かもがわ)に捨てて,魚に食べさせよ」と。しばしば親鸞聖人(しんらん・しょうにん)がおっしゃったのは 、なぜか。それはセミの抜け殻のような肉体の後始末よりも永遠の魂の解決(信必決定、しんじん ・けつじょう)こそが、最も急がなければならないことを教導されたものである。 されば葬式など を大事とすべきではあるまい。やめるべきであろう。
この聖人の教えを破ったわが子、存覚(ぞんかく)を 覚如上人(かくにょ・しょうにん)は断固、勘当されている 。
存覚は『報恩記』などに、「父母の死後は 追善供養を根本とする仏事を大切にして親の恩に報いるつとめをはたすべし」「追善のつとめには、念仏第一なり」 とまで言い切っている。
先祖の追善供養を徹底排除された親鸞聖人の教えを、明らかに破壊するものであり 、破門されて当然だ ろう。
仏教界はその意味でいまや病膏肓(やまい・こうこう)に入ると言えよう。いまにして聖人の御 金言を噛み締めなければ、残るは死骸の仏教のみとなるであろう。
※病膏肓(やまい・こうこう)に入る=治る見込みのない重病。
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では、葬儀や法要・墓参は全く無意味なのかといえば、仏法聞いた人には 仏恩報謝(ぶっとん・ ほうしゃ)・法味愛楽(ほうみ・あいぎょう) 仏法知らぬ人には仏縁ともなろう。
※法味愛楽(ほうみ・あいぎょう)=弥陀に救われたことを喜ぶこと。
毎年、多くの交通事故死が報じられる。「昨年は何千人」と聞いても少しも驚かない。ただ漫然と 数字を見るだけで、「死」については, まったくマヒしていないだろうか。
忙しい忙しいと朝夕欲に振り回され、自己を凝視することがない。
そんなある日、葬儀に参列したり、墓前にぬかずく時、人生を見つめる得難い機会になることがある 。
「オレも一度は死なねばならぬ。酔生夢死(すいせい・むし)ではなかろうか」
※酔生夢死(すいせい・むし)=無駄な一生を過ごすこと。
否応なしに冷厳な真実を見せつけられ 厳粛な思いにさせられる。
願わくは、単なるしきたりに終わらせず、自己の後生の一大事(ごしょうのいちだいじ)を感得し 、解脱(げだつ)を求める機縁としたいものである。
※後生の一大事(ごしょうのいちだいじ)=永久の苦患に沈むか、永遠の楽果を得るか、の一大事を いう。
※解脱(げだつ)=後生の一大事の解決。信心決定(しんじん・けつじょう)のこと。
「歎異抄をひらく」(1万年堂出版、2008.3.3)
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清水弘之(Shimizu Hiroyuki)on June 10,1960
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