9/30/2014

友へ

拝啓
関東では、毎朝、まだ長袖か半袖か思案の日々です。
懐かしいあの頃、昔を知る人が少なくなりました。
姪っ子が高校生でになり、ラインでときどき やりとりしています。
お子さんも大きくなったでしょうね。

昨年の夏、終わったと思った鉢植え。
置きっぱなしにしていたベランダをふと見ると花をつけていました。
子供も花々も知らず知らず 成長してゆくようです。
どうぞご自愛下さい
敬具





9/29/2014

~数の言語~人工知能と囲碁

■ラジオで聞いた「人口知能について」の講義から■


「オセロ」 10の60乗 の先手を読めば勝てる
「チェス」 10の120乗 同上
「将棋」  10の220乗 同上
「囲碁」  10の360乗 同上

チェスと違って、日本の将棋は、持ち駒を使えますから。
さらに、戦国武将も好んだ、「実践的」 囲碁にいたっては、10の360乗。
ゼロが360個並ぶ数字で、目が、@@


ちなみに、10の60乗は、那由多(なゆた)と言うのだそうです
(ゼロが、60個並ぶ)
10の64乗は、不可思議(フカシギ)

一(いち)、十(じゅう)、百(ひゃく)、千(せん)、万(まん)、 億(おく)、兆(ちょう)
1兆で、ゼロの数は、まだ12個。

つづいて、京(けい)、垓(がい)、𥝱(じょ)、穣(じょう)、溝(こう)、澗(かん)、正(せい) 、載(さい) 、極(ごく) 、
恒河沙(ごうがしゃ)、阿僧祇(あそうぎ)、那由他(なゆた)、不可思議(ふかしぎ)、無量大数(むりょうたいすう)

※諸説があるようです。

インドから伝わった経典を翻訳する過程で、つくられた「数」 と想像されます。

実際の「桁数」は、ともかく 「恒河沙(ごうがしゃ)」の数となると 「ガンジス河の砂の数」 
という意味になり、桁数などわかりようが、ないようです。
(描写は「ガンジス河の砂の数ほどの地球のようなものが大宇宙にはあり、そこには、、、」)

現代の天文学をも、越える圧倒的なスケールで、2600年ほど前の、当時 なぜこういうことが分かり、
説かれたのか、不可思議です(思議、不可です)

番組案内(10月は、別内容です)
http://www.nhk.or.jp/r2bunka/ch05/1407.html
IT社会とコミュニケーション ~過去・現在・未来 講師:月尾 嘉男(東京大学名誉教授)


9/28/2014

坪内逍遥と蜷川幸雄のシェイクスピア


坪内逍遥が東大で「シェイクスピア」に出会い、
劇にしたてたのは、歌舞伎や浄瑠璃として。
近代化が終わり久しい。

蜷川氏などによって「温故知新」が行われた。
シェイクスピアの歌舞伎が上演されたりしたのも
旧聞に属する。

※先月から一日一枚、ちょっとした知り合いから、親友まで、ハガキを書いて、投函している。
一年で365枚。
365人とするか、50人(×7枚)とするか。
交流の幅を広げるか、深めるか。


【編集室】
大河ドラマを正座して見る。
戦略家としての黒田如水の、沈着冷静、大胆不敵。
命がけの知略に、ただ感心ばかりもしておれない。

9/24/2014

【亡き祖父のノートから】


ぼろぼろの数冊が、昔の家の屋根裏部屋から出てきました

以下、引用。

※釜中(ふ・ちゅう)魚

※煮るための釜に入れられている魚。

逃れられない死が迫っている人を例えている




「永久に 満ちることなし 欲の山

 魚の釜中(ふ・ちゅう)に 遊ぶがごとし」

(詠み人 未詳)



祖父 辰夫 
・明治37年1月1日生まれ (同年、1904年、日露戦争 開戦の年だった)
・没年平成10年(94歳) 三河門徒(みかわ・もんと、浄土真宗)
・岡崎市出身(旧・三河国のほぼ中央に位置)、生家は商家と聞いています。
 同市は、「八丁味噌」でも知られています。
(同年生まれに、作家 堀辰雄氏。おのずと、「辰年」と知れる)

9/17/2014

インスタント・コーヒーとレギュラー・コーヒーの値段、どうしてほとんど同じになったんだろう

「最近、どうしてインスタント・コーヒーとレギュラー・コーヒーの値段、ほとんど同じになったんだろう」

そんなことを疑問に思っていた時期がありました。
だから、数ヶ月前からインスタント・コーヒーをやめて、一番安い
レギュラー・コーヒー見つけては、ドリップしています。今では、私の出来る唯一の「家事」になっています。
ウマいし、安いし。インスタントより酸化が驚くほど遅い。
コーヒー豆の値段が上がって久しい。
たぶん、豆が上がって、プラス、加工代がかかるから、インスタント
が、高くつくように、なったんだろうか、と思っていました。
古いメモとSDカードが出てきました。メモは、その予想を裏切り、、、
■中国、〇〇〇
■サビ、葉っぱの
■景気 在庫 品切れ
■最低ライン
■5、6
■2100 200
テープで貼り付けられたSDカードをパソコンに差し込んで
思い出しました。
ここに引っ越してから、近所に「コーヒー豆店」があることを知りました。
その時、ふらっと入りました。
店内はドトール風、という訳にはいきませんでしたが、輝いているスペースは、樽の群れ。その数、そう、ざっと10以上。生豆です。

店主と話しをしました。


中国や、〇〇〇が、消費多くなりましたね。

それと、コーヒー農園に、病気が蔓延してます。
需要が増えたのに。農産物ですからね、コーヒーも。
景気が悪いのも、いけない。
中小の業者が、在庫を沢山かかえられなくなってね、品切れを起こしているんですよ。
インスタント・コーヒーの値段?
ああ、豆全体が、5、6年前の倍になっています。
最低のラインも上がってますから、インスタント・コーヒーも値上げです。
うちは、まだ生豆から仕入れてますから。
あれですか?そう、ハワイです。コナコーヒー。200グラム 2100円です。
(2014年冬)
※写真と文章は、関係ありません

9/13/2014

司馬遼太郎さんについて


本当に欲しい宝物はなんでしょうか




司馬遼太郎さんは、生前、
小説「坂の上の雲」の映像化に 最後まで反対されていました。

戦争が舞台の小説ですから、どう描いたとしても、「戦争賛美」になりかねない、
というのが、その理由だったそうです。
ご遺族も、それを固く守っていました。


先年、NHKが、初めて映像化しました。
奥様か、近い方が、しみじみ仰ったそうです。
「もう主人の知っている(NHKの)皆さんも、だんだんいなくなられるから」
これが、最後の機会、と思われたとの事でした。

司馬さんは、無人島に一冊の本を持っていくとしたら何を持っていくか?」
そう問われて即座に「歎異抄」と答えられました。

■ ■ ■『司馬遼太郎全講演第1巻』より一部抜粋 ■■■
親鸞聖人の話を弟子がまとめた『歎異抄』を買いました。
非常にわかりやすい文章で、読んでみると真実のにおいがするのですね。

人の話でも本を読んでも、空気が漏れているような感じがして、何かうそだなと思うことがあります。
『歎異抄』にはそれがありませんでした。
■ ■ ■


■思想と『歎異抄』■■■


政治、経済、科学、医学、文学、芸術、倫理、道徳、法律など、
人生観、人間観、万物の意義などの根底には思想がある。

思想が変われば世界が変わるのだ。
人類の歴史は思想によって創られたものであり、
未来は思想で変わるのである。

日本の思想史における『歎異抄』の位置は極めて大きい。
国宝級の評価は、ただに名文、美文よりも『歎異抄』の放つ深淵な思想についてであろう。
その『歎異抄』の理解に今、波紋が起きているのである。

■■■ ■■■


どこかで読んだことのある文章です。
世界に誇れる宝物。私たちは気づかないでいるだけなのかもしれません。



9/11/2014

これが妻たちの『みどり同盟』


私がこのブログを制作にするにあたり、参考にさせて頂いたいるメルマガです。

数年間にわたり、お一人で、毎日一日も欠かさず送信されています。



2014年、平成26年9月9日のメールマガジン


おはようございます。菊谷隆太です。
(中略)

いつも読んでいただき、どうもありがとうございます。
============

東京のいろいろな公園がテング熱で封鎖されているようです。
東京に公園が多いのは江戸に幕府が開かれて以来、権力者が住まいしていたから、だそうです。

一方、大阪は庶民の街なので、公園は少ないのだそうです。

権力者は当時の庶民に圧政を敷いたかもしれませんが、
今の庶民には潤いを与えている、ということになりますね。


【今日の仏語】は『諸行無常』の2回目です。


==============

仏教に『諸行無常』という言葉があります。
「諸行」とはすべてのもの。
「無常」とは続かない、ということです。


このパソコンも、この机も、あの建物も、
あの太陽でさえもやがてなくなるときが来る。


「そりゃそうだ、世の中のものはすべて変わるでしょ。」
とみな口をそろえるでしょうが
それは建前の言葉で、本心は「常がある」の迷いを離れ切れません。


みどり同盟という言葉があるそうです。
離婚用紙って、みどりの罫線の用紙だそうですが、
夫が定年になれば別れましょうね、という妻たちの集まり、
これが『みどり同盟』


主人を会社に送り出したあとに奥さんたちが、
近所のカフェやレストランに集まって、
「私が一番乗りだったわ」
「来年には夫、定年だから、私はそのときかな」
「定額預金はこちらがもらわなきゃだめよ」
という恐ろしい会話がそこではなされているのです。


ところが働いている夫は、
妻の心がそこまで変貌しているとは露とも感じていない。


結婚したときの「死ぬまで添い遂げようね」と言う妻のセリフを
今でも記憶していて、
妻は今でもそういう心なんだろう、
と大きな勘違いをしている。


妻からしたら、そのセリフを言ったときのそんな心は
とうの昔にどこかに行ってしまって、
今はそのときの心は見る影もないのですが、
夫は全く気がついていない。


いきなりの離婚用紙は「寝耳に水」で
「そんな馬鹿な」の動揺を隠せない


【おどろくな 諸行無常と 説かれたり】



変わりやすい心が変わった、だけのこと、
と諸行無常の真理を悟っていれば、
「さのみ驚くまじきこと」と表情変えずに
淡々と、泰然自若(たいぜんじじゃく)としておれるのでしょうが、
われわれ悲しい凡夫(ぼんぷ)は、厳粛な無常を前に
いつもうろたえるばかりです。


「凡夫(ぼんぷ)」 人間のこと
============

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「一人の作家が一人の人物を生涯に三度、小説に書いたことがあります」

これは、現在(平成26年2014年) NHKで放送されている大河ドラマ「軍師 官兵衛」
の主人公、黒田如水を作家の吉川英治さんが小説にした 最初のシーンです。

~「黒田如水」 吉川英治・作 初出 1943年(昭和18年)1月~8月「週刊朝日」 朝日新聞社~










蜂の巣


太鼓櫓(たいこやぐら)の棟木(むなぎ)の陰へ、すいすいと吸いこまれるように、蜂がかくれてゆく、またぶーんと飛び出してゆくのもある。  

(中略)

「……あ、蜂の巣か」  官兵衛は眼をさました。とたんに自分の襟くびをつよくたたいて、廂(ひさし)の裏を赤い眼で見あげた。

ゆうべから彼は寝ていない。一睡のひまを偸(ぬす)むこともできなかったのである。そこでさっきから独りここへ逃避して、柱の下に背を凭(もた)せかけたまま、よいこころもちで居眠っていたのであった。
 
(吉川英治「黒田如水」 現行版では、講談社文庫があります)

※ 城の評定の間から「逃避」した描写から、この小説は始まっています。

こういう優しい文体は、どこから来るのだろうかと思いにふけったことがあります。
やがて、それは吉川氏の父母の愛情から来たことが分かりました。

( 「親のこころ 3」 という本で知りました。この本の概要を説明した出版社のウエブ・サイトです)
http://www.10000nen.com/?p=13929

吉川英治さんと言えば、「宮本武蔵」など歴史物小説でよく知られている方です。
ですが、生涯3度 同じ人物を小説に書いていることは、あまり知られていません。

「敦煌(とんこう)」などの小説で知られる、平成のはじめに亡くなった井上靖(いのうえ・やすし)さんも仰っていました。
「書いてみたい人物ですが、何かこう、運命的な出会いがないと書くことは出来ない人です」
残念なことに、作品を世に問うことなくお亡くなりになりました。 
(1907年 明治40年5月6日~1991年 平成3年1月29日


以下は、吉川英治さんによる、その人物を主人公にした作品リストです。
(古い作品ばかりなので、正確な 出版年や初出を調べるのに少し時間を要しました)

1)
小説「親鸞記」
 
1922年(大正11年)東京毎夕新聞社入社。 初めての新聞小説「親鸞記」を連載。
1923年(大正12年 1月) 単行本 『親鸞記』 東京毎夕新聞社より出版
 (原稿は、翌年の関東大震災で焼失したと言われています)

※1 現在は、絶版のようです。調べ切れませんでした。
※2 講談社版全集(旧版)
1966年(昭和41年)8月~1970年(昭和45年)9月 講談社から刊行(全56巻)
の 54巻(補巻 第1巻)にその名がありました。 (ウイキペディアより)

2)
単行本 『親鸞』全2巻  

1938年(昭和13年)7月~11月 (現、講談社より刊行)
 初出 題名 「親鸞聖人」 1934年 (昭和9年) (『名古屋新聞』など)

※「吉川英治歴史時代文庫」 講談社 で読むことができます。

3)
若き親鸞   
1949年 (昭和24年) 文章社(版以降 改題)
初出 「親鸞上人」(文芸雑誌『日の出』 新潮社 昭和10年6月・7月号) 

※ 現在は、絶版のようです。調べ切れませんでした。

















9/09/2014

(室町時代の)「手紙」と「通信」について

 
 【人ノ言葉ヲ通ス】
 ラジオを聴いていても、今は「NHKのホームページから」とか言われる。
その後、「ファックスの方は」そして最後に「葉書の住所」が案内される。
 ネットは空気のように 無くてはならない社会の「インフラ」となりました。
この新しい技術は、日々みずみずしく、物珍しいアイディアを目の前に見せてくれます。
振り返ると、インターネットにつなげるのに、電話線からノロノロとデータをやり取りしていたウインドウズ95の頃が懐かしい。
今は、線無し、ですものね。
 その電話線を活用して、初めて「文字」や「図表」を海外にでも送れるようになった時の感動は、ファックス。
今も、企業には必ずある、現役の「技術」ですね。
 通信技術の進歩は、ここ100年くらいで、すさまじい。(若干のズレは私の半世紀分ですが)
「通信」とは、だれが、名付けたのか。翻訳か、造語か、古くからあった言葉でしょうか。
「人」の「言」を「通す」とは、これ以上 適切な「IT用語」はなく永遠の相を帯びているようです。
「私信」という言葉があります。
手紙時代の言葉。
手紙を、個々人宛に出す行為。これもまた「通信」
 これをIT技術のように駆使された人が、室町時代にあったと聞きます。
録音機も、もちろん無い時代。

ご自分の「説法」の内容を「手紙」にしたため、ご自分の「声」を人々に宛てて差し出した。
当時は、言葉を読める人は、少ない。
受け取ったひとが、町の寄り合い所のようなところで、そのお「手紙」を大きな声で朗読する。
回りを取り囲む人々は、その人からの声を、あたかも目の前のことのように、聞き入った。
驚いたでしょうね。感動したでしょうね。
 この手紙は、往時の近江の商人らによって、全国に もたらされた。
その方のおられる寺に旅立たなくても、東北や、九州で、いながらにして「聞く」ことが出来る。
まさに、「グローバル・IT」とも言える さきがけ でしょう。
さらに、お手紙を受け取った人々によって、必死になって書き写され、またそれが全国に旅立った。
まさに「シェア」であり、「ツイッター拡散」でしょう・
今も、数百数千が、個人のお宅に秘蔵されているのでしょう。
 この革新的な「通信手段」の発想によって、今も全国一の信徒数、2千万を誇る「浄土真宗」となりました。
 なんという、奇遇、スクラップしていた新聞の同じ面に、そのトップになった若い人の紹介記事がありました。
さらに私を驚かせたのは、その下のある広告でした。
この本こそ、この巨大教団を突き動かした1冊だそうです。
(出版の事情通から聞いた話しです)

小さな寺出身の方が半世紀以上かかって、この巨大教団に立ち向かわれた。
一言で言えば、「浄土真宗」という看板を汚してしまったことに対して。

 過激な たとえを使わなければ伝わらないでしょう。それはあたかも、「薬屋さん」さんの看板の店先に、「覚せい剤」を並べていたようなありさまでした。
「看板」を外すか、「商品」を鎌倉時代の物に直すか、どちらか一つしか道がなかったのに、ズルズルと今日に至っていると。※
※この項、祖父の遺言書の一部から、事実を変えず、脚色


9/06/2014

気になる新刊本 『生きる意味 109』

【広告】です(^^♪ ※最後尾に、著者の簡単な紹介を書き加えました
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■新刊告知『生きる意味 109~後悔のない人生のための、
世界の偉人、天才、普通人からのメッセージ』9月下旬発売
───────────────────────────1万年堂出版
はるか昔から人類は、「生きる意味」を探し続けています。
気鋭の新人・長南瑞生(おさなみ・みずき)が、西洋、東洋、あらゆる人生論・幸福論に終止符を打
ち、最終解答を明示します。

その名もズバリ、
『生きる意味 109』。



発売は、今月下旬の予定です。
今回は、全7章の主な内容をご紹介いたしましょう。

1章
あなたは今、幸せですか?
○「高収入は、幸福感と関係ない」
 驚くべき発見をしたアメリカの経済学者
○生活水準が高まったからこそ、「生きる意味」を求める時代に入った

2章
私たちは、一体、何のために生きているのか
○「生きる意味」とは、生まれてから死ぬまでに、
 これ一つ果たせば大満足といえるもの
○人間に生まれる確率は、宝くじに連続して当たる以上に低い
○水戸黄門もニーチェも、「人生は苦しい」と言っている

3章
生きる意味について、よくある7つの間違い
 1 生きるために生きる
 2 成長するために生きる
 3 他の誰かのために生きる
 4 愛のために生きる
 5 自己実現のために生きる
 6 生きたあかしを残すために生きる
 7 生きること自体が大事
○なぜ、歴史上の天才たちでも、心からの安心、満足を得られなかったのか
○「生きる目的」を見失ったまま、医学、経済、科学は発展し続けている

4章
「生きる意味」は、一流の文学者、心理学者、哲学者でも分からない
○悲劇の人生で終わらないために、本当の「生きる意味」を知ることが必要
○仏教では、2600年前から「生きる意味」の答えを教えている

5章
ハイデガー、ユング、アインシュタイン……
20世紀を代表する知識人が、仏教の素晴らしさに驚いている
○釈迦は若い頃、あなたと同じことに悩み、本当の「生きる意味」を発見した
○仏教が西洋へ与えたインパクト
 教えの素晴らしさに驚いた知識人たちの声

6章
「幸せに2つある」ことを知らないから、どんなに努力しても幸福になれない
○お金、財産、地位、名誉……
 人と比べなければ喜べない「相対の幸福」
相対の幸福の弱点1 どこまで求めても、キリがない
相対の幸福の弱点2 何を手に入れても、喜びは続かない
相対の幸福の弱点3 死んでいく時には、総崩れになる

7章
どんな人でも、生死の一大事を解決すれば、「絶対の幸福」になれる
○「生死一如」の教え
○「絶対の幸福」になったら、心の風景はどう変わるのか
○「仏教を学びたかった……」
 20世紀最大の哲学者 ハイデガーの後悔
○目先のことに追われる前に、人生最大の問題の解決を


★書籍情報★
『生きる意味 109
~後悔のない人生のための、世界の偉人、天才、普通人からのメッセージ』
長南瑞生 著
定価:本体 1,300円+税
1万年堂出版

━以上、メールマガジンから引用━━
~大切な忘れ物を届けに来ました~
★1万年堂通信 【第205号】
http://www.10000nen.com/
─────────────────










追記
長南瑞生(おさなみ・みずき)氏
東京大学1999年度卒業(物理学)
モーツァルトとブルックナー、ベートーヴェン 好き

9/05/2014

気になる 文章から 【無常と仙崖と告白】

気になる文章をピックアップしています。
(メールマガジンから、一部、編集)





日付: 2014年9月4日 10:59
件名: No.1361【無常と仙崖と告白】

こんにちは。菊谷隆太です。

いつも読んでいただき、どうもありがとうございます。

============

近所に羅漢果ソフトクリームの美味しい店があるのですが、

そこのチケット4枚ある方からいただいて、

最近よく食べています。

羅漢果とは砂糖と違って天然の甘さがあり、

ソフトクリームも一個食べても甘さ控えめであっさりしていて、

すっかりファンになりました。

でもいい年の男が何食べてんだ、と思われるかと

なんか気恥ずかしいんですよね。



【今日の仏語】は『無常』です。



==============

「いつ死んでもいい」

「これで死ねたら本望だ。」

「死んだ方がましだ。」



『死ぬ』

この、人間にとってもっとも重く、厳粛な一大事が

あまりに軽く扱われています。



子供のとき、海水浴をしていて、

沖のほうに泳いでいくと

海の色が青黒くなってきて、

ふとこの底は何百メートルあるのか、

何がこの海面の下で起きているんだろう、と思いを馳せると

急に怖くなって

未知の世界に身体半分預けているのが頼りなく、恐ろしくなって

あわてて砂浜の方に泳ぎ返した思い出があります。



あるいは果てしない宇宙のことを考えていると

圧倒的な時間、空間の前に

怖くなって眠れなくなったこともありました。



わが身が『死ぬ』ということは、

幼いとき、海に感じた、

あるいは宇宙に感じた、

未知にして、圧倒的なところに

身をあずけていくような感覚があります。



しかしやはり死を目の前にしないと

その恐怖の実態は

とてもわかるものではないのだと思います。



こんな話を聞きました。



===========


一休の再来だと騒がれた、

博多聖福寺の禅僧仙崖が臨終を迎えた。



"ぜひ最後のご教訓を"

と弟子達が、紙と筆を捧げてお願いすると、

仙崖、承諾してさらさらと書いた。



どんな尊い辞世が貰えるかと、

固唾をのんで待っていた弟子達は

紙面を見て驚いた。


そこには

"死にともない

   死にともない"

とだけ書かれてある。



あれほど大徳と言われた高僧の、

これが辞世とあっては

和尚の徳にキズがつく。



途方にくれた弟子達は、

なんとかせねばと協議の末、

"さき程のお言葉も結構でありますが、いま一つお言葉を……"

と再度お願いすると、

快く受けた仙崖が、

やがてくれた書面を見て一同仰天したという。



先の言葉の上に、

"ほんまに

   ほんまに"

とつけ加えられていただけだった。

=========


"死にともない

    死にともない"

 ほんまに

   ほんまに"



すべての人間の、死に直面した、偽りなき告白でしょう。





============

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9/02/2014

[トルストイが感嘆した「東洋の寓話」

     
この絵は、清水家に代々伝わるもので、亡くなった明治生まれの祖父に言わせると、
「絵の一つ一つに、意味がある」のだといいます。

全部知っているくせに、教えないところが、この明治生まれの心憎いところで。

私が、意味を知りたくなることを見抜いているのが、また心憎い。

ヒントだけは、与えられました。

「インドの古い話だよ」

図書館に行ったり、「アマゾン」で調べたり、その間、仕事が忙しくてずいぶんと、歳月が流れてしまいました。

調べていくうちに、この絵の元になった話しは、どうやら世界的に有名らしということだけは、分かりました。

トルストイが、「懺悔録」という本の中で、絶賛しているらしいのです。

「これほど、人間の真実のすがたを、語り尽くした話は、ない」と。

それらしい、翻訳の文章を、数点、いや沢山読みましたが、どうも、ピンと来ませんでした。

ところが、数年前、偶然本屋で見つけた本の中に書かれていた文章は、衝撃的でした。

「懇切」で「丁寧」で、私でも意味が分かりそうでした。

やっと、あの絵の意味が分かる!

( 5部構成で「導入文章」「なぜこの話なのか」からそして、「絵の元となった たとえ話」
「たとえの意味」「丁寧な解説」まで網羅されていました )

※ここに、全文を掲載しようと思います。
ですから長文です。

※「こころの朝」(木村耕一 編著、1万年堂出版、平成17年2005年 刊行)
第1章 道が開ける から抜粋 ※

なお、原文には脚注があります。(*印のところ)
このブログでは、各章の最後に、まとめました。

◇───────────────

■トルストイが感嘆した「東洋の寓話」(1)■

【これ以上、人間の姿を 赤裸々に表した話はない】

⇒『仏説 譬喩経(ひゆ・きょう)』の「人間の実相」

─────────────────◇


自分とは? 人間とは?
とらえようもない、大きなテーマかもしれないが、まじめに、生き方、進路、
仕事などを考えると、必ず直面する問題である。

『孫子』*の兵法の、
「彼を知り己れを知れば、百戦して殆(あや)うからず」
は、あまりにも有名だが、実は、この言葉の後に、重要な意味が隠されている。

「彼を知らずして己れを知れば、一勝一負す。

彼を知らず己れを知らざれは、戦う毎に必ず殆(あや)うし」

たとえ相手を知らなくとも、己の姿さえ知っていれば勝敗を五分に持ってい
ける。だが、己知らずは、戦うたびに必ず敗れる、と断言している。

まず、自分の姿を知ることが、いかなる場合でも、重要な心得であることを
示した名言である。


「人間とは何か」を追究するロシアの文豪・トルストイ*は、
「東洋の寓話を読んで、大きな衝撃を受けた」
と語っている。

世界的な名声を博したトルストイをして、
「これ以上、人間の姿を赤裸々に表した話はない。単なる作り話ではなく、誰
でも納得のゆく真実だ」
と言わしめた「東洋の寓話」とは、何だったのか。


それは、釈迦の説いた「人間の実相」であった。『仏説 譬喩経(ひゆ・きょう)』に記されて
いる。

* * * * * * * * * * *
ある日、釈迦の法話会場に、一人の王様が参詣した。名を、勝光王(しょう・こう・おう)という。
初めて仏法を聴く勝光王に、釈迦は、「人間とは、どんなものか」を例えで
説いたのである。


王よ、それは今から幾億年という昔のことである。ぼうぼうと草の生い茂っ
た、果てしない広野を、しかも木枯らしの吹く寂しい秋の夕暮れに、独りトボ
トボと歩いていく旅人があった。

ふと旅人は、急ぐ薄暗い野道に、点々と散らばっている白い物を発見して立
ち止まった。いったい何だろうと、一つの白い物を拾い上げて旅人は驚いた。

なんとそれは、人間の白骨ではないか。どうしてこんな所に、しかも多くの人
間の白骨があるのだろうか、と不気味な不審を抱いて考え込んだ。

そんな旅人に、まもなく前方の闇の中から、異様なうなり声と足音が聞こえ
てきた。闇をすかして見ると、彼方から飢えに狂った、見るからに獰猛(どうもう)な大虎
が、こちら目掛けて、まっしぐらに突進してくるではないか。

旅人は、瞬時に白骨の散らばっている意味を知った。自分と同じく、この広
野を通った旅人たちが、あの虎に食われていったに違いない。同時に旅人は自
分もまた、同じ立場にいることを直感した。驚き恐れた旅人は無我夢中で、今
来た道を全速力で虎から逃げた。

しかし、所詮は虎に人間はかなわない。やがて猛虎の吐く、恐ろしい鼻息を
身近に感じて、もうだめだと旅人が思った時である。どう道を迷って走ってき
たのか、道は断崖絶壁で行き詰まっていたのだ。

絶望に暮れた彼は、幸いにも断崖に生えていた木の元から一本の藤蔓(ふじずる)が垂れ
下がっているのを発見した。旅人は、その藤蔓を伝ってズルズルズルーと下り
たことはいうまでもない。

文字通り、九死に一生を得た旅人が、ホッとするやいなや、せっかくの獲物
を逃した猛虎は断崖に立ち、いかにも無念そうに、ほえ続けている。

「やれやれ、この藤蔓のおかげで助かった。まずは一安心」と旅人が、足下を
見た時である。旅人は思わず口の中で「あっ」と叫んだ。


底の知れない深海の怒涛(どとう)が絶えず絶壁を洗っているではないか。それだけで
はなかった。波間から三匹の大きな竜が、真っ赤な口を開け、自分の落ちるの
を待ち受けているのを見たからである。旅人は、あまりの恐ろしさに、再び藤
蔓を握り締め身震いした。

しかし、やがて旅人は空腹を感じて周囲に食を探して眺め回した。

その時である。
旅人は、今までのどんな時よりも、最も恐ろしい光景を見たのである。
藤蔓の元に、白と黒のネズミが現れ、藤蔓を交互にかじりながら回っている
ではないか。やがて確実に自か黒のネズミに、藤蔓はかみ切られることは必至
である。絶体絶命の旅人の顔は青ざめ、歯はガタガタと震えて止まらない。


だがそれも長くは続かなかった。それは、この藤蔓の元に巣を作っていたミ
ツバチが、甘い五つの蜜の滴りを彼の口に落としたからである。旅人は、たち
まち現実の恐怖を忘れて、陶然と蜂蜜に心を奪われてしまったのである。




釈迦がここまで語ると、勝光王は驚いて、
「世尊*、その話は、もうこれ以上、しないでください」
と叫んだ。

「どうしたのか」

「その旅人は、なんとバカな、愚かな人間でしょうか。それほど危ない所にい
なから、なぜ、五滴の蜜くらいに、その恐ろしさを忘れるのでしょうか。旅人
がこの先どうなるかと思うと、恐ろしくて聴いておれません」

「王よ、この旅人をそんなに愚かな人間だと思うか。実はな、この旅人とは、
そなたのことなのだ」

「えっ、どうして、この旅人が私なのですか」

「いや、そなた一人のことではない。この世の、すべての人間が、この愚かな
旅人なのだ」

釈迦の言葉に、聴衆の一同は驚いて総立ちになった。


*「孫子」 中国の春秋時代の兵法家・孫武の著といわれる。
*「トルストイ」 レフ・トルストイ(1828-1910)
*「実相」 本当のすがた
*「世尊」 世の中で最も尊い人。仏を敬って言う語。

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■トルストイが感嘆した「東洋の寓話」(2)■

【旅には必ず目的地があるように、人生にも目的がある】

⇒「旅人」とは私たち

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トルストイが、「これ以上、人間の姿を赤裸々に表した話はない」と絶賛し
た「人間の実相」の例えは、何を表しているのだろうか。


「旅人」とは、私たちのことである。
旅に出ると一カ所にとどまっていないように、私たちは昨日から今日、今日
から明日へと、変わっている。


旅行中は天気のよい日ばかりとは限らない。雨、風、雪の日もあれば、台風
に見舞われることもあるだろう。上り坂もあれば、下り坂もある。
人生も同じだ。昨年から今年へ、今年から来年へと旅を続けていく間には、
調子のいいことばかりはない。悲しいこと、つらいこと、どん底に落ちる日も
ある。


確かに、人生は「旅」に似ている。しかし、旅人ならば、行き先、目的地が
ハッキリしているが、私たちは「人生の目的」を知っているだろうか。自分が、
どこからやってきて、いずこへ行くのか知らないまま、とにかく歩いたり、走
ったりしていることが、多いのではなかろうか。

一休*は、
「世の中の 娘が嫁と花咲いて 嬶(かかあ)としぼんで 婆と散りゆく」
と歌っている。
               
女性で一番良い時が、娘時代である。だから「娘」という字は「女」偏に
「良」と書く。娘が結婚して家に入ると、嫁になる。嫁さんが、子供を産むと
嬶といわれる。

「女は弱し、されど母は強し」といわれるように、新婚当時はおしとやかでも、
お母さんになると鼻高く、どっしりするので、「女」偏に「鼻」と書く。

嬶の次にお婆さんになる。額にしわが寄ってくるので、女の上に波と書くの
だそうだ。

これが女性の一生であるが、男性も呼び名が違うだけで、すべて同じコース
をたどる。何十億の人がいても例外はない。いつまでも娘ではおれないし、お
婆さんが娘に戻ることもできない。

「この間まで自分は娘だと思っていたのに、もう息子が嫁をもらって孫ができ
た。いやぁ、月日のたつのは早いなあ」と言っているように、女は、娘から嫁、
嫁から嬶、嬶からお婆さんへと、どんどん歩き、走っていく。

一休が「婆と散りゆく」と言っているのは、そうしてみんな死んでいくから
である。

だから、また一休は、
「門松は 冥土の旅の 一里塚」
とも歌っている。

「冥土」とは「死後の世界」のことである。一日生きたということは、一日死
に近づいたということであるから、生きるということは、死へ向かっての行進
であり、「冥土への旅」なのである。

年が明けると、皆「おめでとう」「おめでとう」と言う。しかし一年たった
ということは、それだけ大きく死に近づいたということであるから、元旦は冥
土の旅の一里塚なのだ。

私たちは去年から今年、今年から来年へと生きるということは、歩くことで
あり、走ることであり、泳ぐことであり、飛行機ならば飛んでいることである。
誰でも歩く時も走る時も、一番大事なのは、目的地である。
目的なしに歩いたら、歩き倒れあるのみだからである。
ゴールなしに走り続けるランナーは、走り倒れあるのみである。

行く先を知らずに飛んでいる飛行機は、墜落の悲劇あるのみだからである。










あそこがゴールだとハッキリしていてこそ、がんばって走ることができる。
あの島まで泳ごう、と目的地に泳ぎ着いて初めて、ここまで泳いできてよか
っだと、一生懸命泳いできた満足がある。

目的なしに生きるのは、死ぬために生きるようなものだ。死を待つだけの人
生は、苦しむだけの一生に終わる。

「人間に生まれてよかった」と心から喜べる「人生の目的」を知ることの大切
さを教えるために、釈迦は、私たちを「旅人」に例えたのである。



*「一休」(1394-1481)室町時代の禅僧

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■トルストイが感嘆した「東洋の寓話」(3)■

【底知れぬほど寂しいところが人生である】

⇒木枯らしの吹く、秋の夕暮れ



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旅人は、果てしない無人の広野を、一人で歩いていた。
しかも、それは木枯らしの吹く、秋の夕暮れであった。
これは、人生の寂しさを例えたものである。

なぜ、人生は寂しいのか。その理由を、釈迦は、
「独生独死 (独り生まれ、独り死し)
独去独来 (独り去り、独り来る)」
と説いている。

私たちは、この世に、独りで生まれてきたのだから、死んでいく時も独りで
ある。最初から最後まで、独りぼっちの旅なのだ。

これは、「肉体の連れはあっても、魂の連れがない」ことを表している。
どれだけ大勢の人に囲まれていても寂しいのは、自分の心を分かってくれる
人がいないからである。

親子、夫婦、親友であっても、心の中を、すべて洗いざらい言えるだろうか。
何一つ隠さずに、さらけ出すことができるだろうか。
                                     
心の奥底を、よくよく見つめてみると、とても言葉に出せないものを、お互
いに持っている。もし、言ってしまったら、「そんなことを思っていたのか」
と、相手がびっくりし、嫌われてしまうだろう。

「あの人には、何でも言える」というのは、言える程度までならば、何でも言
えるということだ。

自分の悩みや苦しみを、すべて誰かに話すことができ、完全に分かってもら
えたならば、どれほど救われるかしれない。しかし、現実には不可能である。

「永遠の愛」を誓った夫婦でさえ、どれだけ行き違いが多いことか。話し合え
ば話し合うほど、お互いの感覚や価値観の違いが浮き彫りになってくるのは、
どうしようもない。心から一つになりたいと願いながら、分かり合えない悲し
さ、寂しさが、日ごとに募っていく。あからさまに言いたいことを言っている
とケンカになるので、家庭生活を維持するためには、違いを認めて、歩み寄ら
ねばならない。それには、かなりのエネルギーを必要とするから、相手に配慮
する気力がなくなった時が、破局である。

どんなに仲が良く、一緒に暮らしている相手であってでも、一人一人の本心
は、別の人には、のぞき見ることもできない。


自分にさえ知りえぬ、秘密の蔵のような心があると、仏教では説かれている。


寂しくて、何かをせずにおれないが、何をしても、紛らわすことができない。
まさに、底知れぬほど寂しいところが人生なのである。











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■トルストイが感嘆した「東洋の寓話」(4)■

【命の長さは、どれくらいか】

⇒白骨、猛虎、藤蔓



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旅人は、道に散らばっている白骨を見て驚いた。
この「白骨」は、「他人の死」を表している。

白骨を発見して驚いたというのは、私たちの日常、他人の死を、見たり聞い
たりした時の衝撃を例えたものである。

死ということは我々の驚きである。だから四十円(し・じゅうえん)というのを嫌ってヨン十円という、道で葬式や霊柩車に出会うと引き返す神経質な人がある。死というとゾーッとする人がある。葬式を見ると頭痛がするという人もある。死を恐れる
のは生物の本能なのだ。


死の影に驚く人々を区別して、釈迦は、「四馬(しば)の譬喩(ひゆ)」を説いている。

(1)鞭影(べん・えい)を見て驚く馬
(2)鞭(むち)、毛に触れて驚く馬
(3)鞭、肉に当たって驚く馬
(4)鞭、骨にこたえて驚く馬

第一の「鞭影を見て驚く馬」
とは、散っていく花や、火葬場から立ち昇る煙
を眺めて、やがて我が身にも襲いかかってくるであろう死に驚く人をいう。

第二の「鞭が毛に触れて驚く馬」とは、葬式の行列や霊柩車を見て、我が身
の一大事に驚く人。

第三の「鞭が肉に当たって驚く馬」とは、隣家や親戚の葬式や眼前の無常を
見て驚く人。

第四の「骨にこたえて驚く馬」とは、肉親を失って自分の死に驚く人、を例えたものである。

事故、殺人、テロ、自殺……。テレビや新聞で、人の死のニュースの流れな
い日はない。よく考えると、私たちも、旅人と同じように、白骨の広野にポッ
ネンと立っているようなものだ。


はたして自分自身は、この「四馬の響喩」の、どこに当てはまるだろうか。


猛虎に例えられたのは無常(自分の死)であり、追いかけてくるのは無常の
嵐の吹きすさんでいることを表している。

私たち一人一人の背後に、飢えた猛虎が迫っているのは、否定しようのない
事実である。











あるガン患者は、闘病記に、次のように記している。
* * * * * * * * * *

死は、突然にしかやって来ないといってもよい。いつ来ても、その当事者は
、突然に来たとしか感じないのである。生きることに安心しきってい
る心には、死に対する用意が、なにもできていないからである。

(中略)

死は、来るべからざる時でも、やってくる。来るべからざる場所にも、平気
でやってくる。ちょうど、きれいにそうじをした座敷に、土足のままで、
ズカズカと乗り込んでくる無法者のようなものである。それでは、あまり
ムチャである。しばらく待てといっても、決して、待とうとはしない。人
間の力では、どう止めることも、動かすこともできない怪物である。

※岸本英夫『死を見つめる心 ガンとたたかった十年間』講談社、1964年


旅人は、藤蔓につかまって、断崖にぶら下がっている。

この「藤蔓」は、人間の寿命を表している。

「白と黒のネズミ」に例えられたのは「昼と夜」のことである。二匹のネズミ
が交互に藤蔓をかじりながら回るように、私たちの生命を昼と夜とが、こもご
も循環しながら削っているのだ。

正月もお盆も祝日も、一刻の休みもなくかじり続けている。

やがて、白のネズミか、黒のネズミにかみ切られる時が必ず来る。


ある時、釈迦が修行者たちに命の長さについて尋ねている。

修行者の一人は、「命の長さは五、六日間でございます」。

次の一人は、「命の長さは五、六日なんてありません。まあ、食事を致す間く
らいのものでございます」。

次の一人は、「いやいや命の長さは一息つく間しかありません。吸った息が
出なかったらそれでおしまいです」。

釈迦は、最後の答えを大いに称賛し、

「そうだ、そなたの言うとおり、命の長さは吸った息が出るのを待たぬほどの
長さでしかないのだ。命の短さがだんだんに身にしみて感じられるようになる
ほど、人間は人間らしい生活を営むようになるのだ」
と教えている。










◇───────────────

■トルストイが感嘆した「東洋の寓話」(5)■

【死んだら、どうなるのか】

⇒深海、三匹の竜、五滴の蜂蜜



─────────────────◇

藤蔓が切れると同時に、旅人は、底の知れない深海へ落ちていく。

これを、「後生(ごしょう)の一大事」という。

後生とは、一息切れた死後のことである。

何かのことで吸った息が吐き出せなければ、吐いた息が吸えなければ、その
時から後生である。

いくら平均寿命が延びたといっても、死ななくなったのではない。l00パ
ーセントぶち当たらねはならぬのが後生である。

だから後生と関係のない人は一人もいない。

次に、一大事とは、どんなことをいわれるのか。仏教に、こんな話が伝えら
れている。


ある時、釈迦が托鉢中(たくはつ・ちゅう)、大きな橋の上で、辺りをはばかりながら一人の娘が、
しきりと袂(たもと)へ石を入れているのを見つけた。

自殺の準備に違いない、と知った釈迦は、きっそく近寄り、優しくその事情
を尋ねた。

相手が釈迦と分かった娘は、心を開いてこう打ち明けた。

「お恥ずかしいことですが、ある人を愛しましたが、今は捨てられてしまいま
した。世間の目は冷たく、お腹の子の将来などを考えますと、死んだほうがど
んなにましだろうと苦しみます。どうかこのまま死なせてくださいませ」

娘はよよと泣き崩れた。

その時、釈迦は、哀れに思い、こう諭している。

「愚かなそなたには、例えをもって教えよう。ある所に、毎日、重荷を積んだ
車を朝から晩まで引かねばならぬ牛がいたのだ。

つくづくその牛は思った。なぜオレは毎日、こんなに苦しまねばならぬのか、
自分を苦しめているものはいったい何なのかと考えた。そうだ!この車さえ
なければオレは苦しまなくてもよいのだと、牛は車を壊すことを決意した。

ある日、猛然と走って、車を大きな石に打ち当てて、木っ端微塵に壊してし
まったのだ。

ところが飼い主は、こんな乱暴な牛には、頑丈な車でなければまた壊される
と、やがて鋼鉄製の車を造ってきた。それは壊した車の何十倍、何百倍の重さ
であった。

その車で重荷を同じように毎日引かされ、以前の何百倍、何千倍苦しむよう
になった牛は、深く後悔したが後の祭りであった。

牛が、ちょうど、この車さえ壊せば苦しまなくてもよいと思ったのど同じよ
うに、そなたはこの肉体さえ壊せば楽になれると思っているのだろう。そなた
には分からないだろうが、死ねばもっと苦しい世界へ飛び込まなければならな
いのだ。その苦しみは、この世のどんな苦しみよりも恐ろしい苦しみなんだよ」


このように、釈迦は、すべての人に、死ねば取り返しのつかない一大事のあ
ることを教えている。これを後生(ごしょう)の一大事といわれる。


底の知れない深海は地獄であり、三匹の恐ろしい竜は、欲、怒り、愚痴の煩
悩を例えている。


青い竜は底の知れない欲の心を表している。

金が欲しい、物が欲しい、褒められたい、認められたい、もっともっととい
う限りない欲に、私たちは、どれだけ恐ろしいことを思い続けているだろうか。

あいつがいなければ、こいつがいなければ、あの人が失敗したら、この人が
死ねばと、どれだけの人を、心で蹴落とし、殺していることだろうか。

親であれ兄弟であれ、子供であれ恩人であれ、自分の欲のためには、どんな
恐ろしいことでも考える。

遺産相続で、兄弟や親戚同士、骨肉相食む争いは、この欲の心が引き起こす
惨劇である。

その欲の心が妨げられると、出てくるのが怒りの心であり、赤い竜で表され
ている。

あいつのせいで儲けそこなった、こいつのせいで恥をかかされたと、怒りの
心が燃え上がる。

離婚話にカッとなった男が、部屋に灯油をまき火をつけ、妻も子供も焼き払
った事件があったが、この怒りの心のなせるわざである。

次の愚痴とは、ねたみ、そねみ、うらみの心をいい、黒い竜で表されている。

とても欲を起こしても、怒ってみても、かなわぬ相手と知ると、ねたみ、そ
ねみ、うらみの心がわき上がってくる。

相手の才能や美貌、金や財産、名誉や地位をねたみ、そねみ、相手の不幸を
喜ぶ悪魔の心が出てくる。

災難に遭って苦しんでいる人に、「お気の毒に」と言いながら、心ではニヤ
リとする、恐ろしい心のことである。


釈迦は、これらの煩悩によって悪を造り続ける人間の実相を、

心常念悪・・・心常に悪を念じ
口常言悪・・・口常に悪を言い
身常行悪・・・身常に悪を行じ
曽無一善・・・曽(かつ)て一善無し

と、『大無量寿経(だい・むりょうじゅ・きょう)』に説き、堕つる地獄は、自ら造り、自ら独り堕ちていく世
界であることを、明らかにしている。











五滴の蜂蜜とは、人間の五欲を表している。

食べたい、飲みたいという食欲。

お金や財産を追い求める財欲。

男女の仲を満たそうとする色欲。

どんな人からでも褒めてもらいたい名誉欲。

少しでも寝ておりたいという睡眠欲。

これらの、五つの欲には限りがない。


細い藤蔓(ふじずる)にぶら下がり、危険極まりない状態にありながら、一切を忘れて、
蜂蜜を追い求めることしか考えていないのは、誰のことなのか。

「単なる作り話ではなく、誰でも納得のゆく真実だ」
と感嘆したトルストイは、「人間の実相」の例えの中に、紛れもない、自分の
姿を見たのであろう。












※「こころの朝」(木村耕一 編著、1万年堂出版、平成17年2005年 刊行)収録
第1章 道が開ける から抜粋
■トルストイが感嘆した「東洋の寓話」(1)~(5)■

※ なお、写真の挿入は、私が編集しました(原作には、ありません)