9/02/2014

[トルストイが感嘆した「東洋の寓話」

     
この絵は、清水家に代々伝わるもので、亡くなった明治生まれの祖父に言わせると、
「絵の一つ一つに、意味がある」のだといいます。

全部知っているくせに、教えないところが、この明治生まれの心憎いところで。

私が、意味を知りたくなることを見抜いているのが、また心憎い。

ヒントだけは、与えられました。

「インドの古い話だよ」

図書館に行ったり、「アマゾン」で調べたり、その間、仕事が忙しくてずいぶんと、歳月が流れてしまいました。

調べていくうちに、この絵の元になった話しは、どうやら世界的に有名らしということだけは、分かりました。

トルストイが、「懺悔録」という本の中で、絶賛しているらしいのです。

「これほど、人間の真実のすがたを、語り尽くした話は、ない」と。

それらしい、翻訳の文章を、数点、いや沢山読みましたが、どうも、ピンと来ませんでした。

ところが、数年前、偶然本屋で見つけた本の中に書かれていた文章は、衝撃的でした。

「懇切」で「丁寧」で、私でも意味が分かりそうでした。

やっと、あの絵の意味が分かる!

( 5部構成で「導入文章」「なぜこの話なのか」からそして、「絵の元となった たとえ話」
「たとえの意味」「丁寧な解説」まで網羅されていました )

※ここに、全文を掲載しようと思います。
ですから長文です。

※「こころの朝」(木村耕一 編著、1万年堂出版、平成17年2005年 刊行)
第1章 道が開ける から抜粋 ※

なお、原文には脚注があります。(*印のところ)
このブログでは、各章の最後に、まとめました。

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■トルストイが感嘆した「東洋の寓話」(1)■

【これ以上、人間の姿を 赤裸々に表した話はない】

⇒『仏説 譬喩経(ひゆ・きょう)』の「人間の実相」

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自分とは? 人間とは?
とらえようもない、大きなテーマかもしれないが、まじめに、生き方、進路、
仕事などを考えると、必ず直面する問題である。

『孫子』*の兵法の、
「彼を知り己れを知れば、百戦して殆(あや)うからず」
は、あまりにも有名だが、実は、この言葉の後に、重要な意味が隠されている。

「彼を知らずして己れを知れば、一勝一負す。

彼を知らず己れを知らざれは、戦う毎に必ず殆(あや)うし」

たとえ相手を知らなくとも、己の姿さえ知っていれば勝敗を五分に持ってい
ける。だが、己知らずは、戦うたびに必ず敗れる、と断言している。

まず、自分の姿を知ることが、いかなる場合でも、重要な心得であることを
示した名言である。


「人間とは何か」を追究するロシアの文豪・トルストイ*は、
「東洋の寓話を読んで、大きな衝撃を受けた」
と語っている。

世界的な名声を博したトルストイをして、
「これ以上、人間の姿を赤裸々に表した話はない。単なる作り話ではなく、誰
でも納得のゆく真実だ」
と言わしめた「東洋の寓話」とは、何だったのか。


それは、釈迦の説いた「人間の実相」であった。『仏説 譬喩経(ひゆ・きょう)』に記されて
いる。

* * * * * * * * * * *
ある日、釈迦の法話会場に、一人の王様が参詣した。名を、勝光王(しょう・こう・おう)という。
初めて仏法を聴く勝光王に、釈迦は、「人間とは、どんなものか」を例えで
説いたのである。


王よ、それは今から幾億年という昔のことである。ぼうぼうと草の生い茂っ
た、果てしない広野を、しかも木枯らしの吹く寂しい秋の夕暮れに、独りトボ
トボと歩いていく旅人があった。

ふと旅人は、急ぐ薄暗い野道に、点々と散らばっている白い物を発見して立
ち止まった。いったい何だろうと、一つの白い物を拾い上げて旅人は驚いた。

なんとそれは、人間の白骨ではないか。どうしてこんな所に、しかも多くの人
間の白骨があるのだろうか、と不気味な不審を抱いて考え込んだ。

そんな旅人に、まもなく前方の闇の中から、異様なうなり声と足音が聞こえ
てきた。闇をすかして見ると、彼方から飢えに狂った、見るからに獰猛(どうもう)な大虎
が、こちら目掛けて、まっしぐらに突進してくるではないか。

旅人は、瞬時に白骨の散らばっている意味を知った。自分と同じく、この広
野を通った旅人たちが、あの虎に食われていったに違いない。同時に旅人は自
分もまた、同じ立場にいることを直感した。驚き恐れた旅人は無我夢中で、今
来た道を全速力で虎から逃げた。

しかし、所詮は虎に人間はかなわない。やがて猛虎の吐く、恐ろしい鼻息を
身近に感じて、もうだめだと旅人が思った時である。どう道を迷って走ってき
たのか、道は断崖絶壁で行き詰まっていたのだ。

絶望に暮れた彼は、幸いにも断崖に生えていた木の元から一本の藤蔓(ふじずる)が垂れ
下がっているのを発見した。旅人は、その藤蔓を伝ってズルズルズルーと下り
たことはいうまでもない。

文字通り、九死に一生を得た旅人が、ホッとするやいなや、せっかくの獲物
を逃した猛虎は断崖に立ち、いかにも無念そうに、ほえ続けている。

「やれやれ、この藤蔓のおかげで助かった。まずは一安心」と旅人が、足下を
見た時である。旅人は思わず口の中で「あっ」と叫んだ。


底の知れない深海の怒涛(どとう)が絶えず絶壁を洗っているではないか。それだけで
はなかった。波間から三匹の大きな竜が、真っ赤な口を開け、自分の落ちるの
を待ち受けているのを見たからである。旅人は、あまりの恐ろしさに、再び藤
蔓を握り締め身震いした。

しかし、やがて旅人は空腹を感じて周囲に食を探して眺め回した。

その時である。
旅人は、今までのどんな時よりも、最も恐ろしい光景を見たのである。
藤蔓の元に、白と黒のネズミが現れ、藤蔓を交互にかじりながら回っている
ではないか。やがて確実に自か黒のネズミに、藤蔓はかみ切られることは必至
である。絶体絶命の旅人の顔は青ざめ、歯はガタガタと震えて止まらない。


だがそれも長くは続かなかった。それは、この藤蔓の元に巣を作っていたミ
ツバチが、甘い五つの蜜の滴りを彼の口に落としたからである。旅人は、たち
まち現実の恐怖を忘れて、陶然と蜂蜜に心を奪われてしまったのである。




釈迦がここまで語ると、勝光王は驚いて、
「世尊*、その話は、もうこれ以上、しないでください」
と叫んだ。

「どうしたのか」

「その旅人は、なんとバカな、愚かな人間でしょうか。それほど危ない所にい
なから、なぜ、五滴の蜜くらいに、その恐ろしさを忘れるのでしょうか。旅人
がこの先どうなるかと思うと、恐ろしくて聴いておれません」

「王よ、この旅人をそんなに愚かな人間だと思うか。実はな、この旅人とは、
そなたのことなのだ」

「えっ、どうして、この旅人が私なのですか」

「いや、そなた一人のことではない。この世の、すべての人間が、この愚かな
旅人なのだ」

釈迦の言葉に、聴衆の一同は驚いて総立ちになった。


*「孫子」 中国の春秋時代の兵法家・孫武の著といわれる。
*「トルストイ」 レフ・トルストイ(1828-1910)
*「実相」 本当のすがた
*「世尊」 世の中で最も尊い人。仏を敬って言う語。

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■トルストイが感嘆した「東洋の寓話」(2)■

【旅には必ず目的地があるように、人生にも目的がある】

⇒「旅人」とは私たち

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トルストイが、「これ以上、人間の姿を赤裸々に表した話はない」と絶賛し
た「人間の実相」の例えは、何を表しているのだろうか。


「旅人」とは、私たちのことである。
旅に出ると一カ所にとどまっていないように、私たちは昨日から今日、今日
から明日へと、変わっている。


旅行中は天気のよい日ばかりとは限らない。雨、風、雪の日もあれば、台風
に見舞われることもあるだろう。上り坂もあれば、下り坂もある。
人生も同じだ。昨年から今年へ、今年から来年へと旅を続けていく間には、
調子のいいことばかりはない。悲しいこと、つらいこと、どん底に落ちる日も
ある。


確かに、人生は「旅」に似ている。しかし、旅人ならば、行き先、目的地が
ハッキリしているが、私たちは「人生の目的」を知っているだろうか。自分が、
どこからやってきて、いずこへ行くのか知らないまま、とにかく歩いたり、走
ったりしていることが、多いのではなかろうか。

一休*は、
「世の中の 娘が嫁と花咲いて 嬶(かかあ)としぼんで 婆と散りゆく」
と歌っている。
               
女性で一番良い時が、娘時代である。だから「娘」という字は「女」偏に
「良」と書く。娘が結婚して家に入ると、嫁になる。嫁さんが、子供を産むと
嬶といわれる。

「女は弱し、されど母は強し」といわれるように、新婚当時はおしとやかでも、
お母さんになると鼻高く、どっしりするので、「女」偏に「鼻」と書く。

嬶の次にお婆さんになる。額にしわが寄ってくるので、女の上に波と書くの
だそうだ。

これが女性の一生であるが、男性も呼び名が違うだけで、すべて同じコース
をたどる。何十億の人がいても例外はない。いつまでも娘ではおれないし、お
婆さんが娘に戻ることもできない。

「この間まで自分は娘だと思っていたのに、もう息子が嫁をもらって孫ができ
た。いやぁ、月日のたつのは早いなあ」と言っているように、女は、娘から嫁、
嫁から嬶、嬶からお婆さんへと、どんどん歩き、走っていく。

一休が「婆と散りゆく」と言っているのは、そうしてみんな死んでいくから
である。

だから、また一休は、
「門松は 冥土の旅の 一里塚」
とも歌っている。

「冥土」とは「死後の世界」のことである。一日生きたということは、一日死
に近づいたということであるから、生きるということは、死へ向かっての行進
であり、「冥土への旅」なのである。

年が明けると、皆「おめでとう」「おめでとう」と言う。しかし一年たった
ということは、それだけ大きく死に近づいたということであるから、元旦は冥
土の旅の一里塚なのだ。

私たちは去年から今年、今年から来年へと生きるということは、歩くことで
あり、走ることであり、泳ぐことであり、飛行機ならば飛んでいることである。
誰でも歩く時も走る時も、一番大事なのは、目的地である。
目的なしに歩いたら、歩き倒れあるのみだからである。
ゴールなしに走り続けるランナーは、走り倒れあるのみである。

行く先を知らずに飛んでいる飛行機は、墜落の悲劇あるのみだからである。










あそこがゴールだとハッキリしていてこそ、がんばって走ることができる。
あの島まで泳ごう、と目的地に泳ぎ着いて初めて、ここまで泳いできてよか
っだと、一生懸命泳いできた満足がある。

目的なしに生きるのは、死ぬために生きるようなものだ。死を待つだけの人
生は、苦しむだけの一生に終わる。

「人間に生まれてよかった」と心から喜べる「人生の目的」を知ることの大切
さを教えるために、釈迦は、私たちを「旅人」に例えたのである。



*「一休」(1394-1481)室町時代の禅僧

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■トルストイが感嘆した「東洋の寓話」(3)■

【底知れぬほど寂しいところが人生である】

⇒木枯らしの吹く、秋の夕暮れ



─────────────────◇
旅人は、果てしない無人の広野を、一人で歩いていた。
しかも、それは木枯らしの吹く、秋の夕暮れであった。
これは、人生の寂しさを例えたものである。

なぜ、人生は寂しいのか。その理由を、釈迦は、
「独生独死 (独り生まれ、独り死し)
独去独来 (独り去り、独り来る)」
と説いている。

私たちは、この世に、独りで生まれてきたのだから、死んでいく時も独りで
ある。最初から最後まで、独りぼっちの旅なのだ。

これは、「肉体の連れはあっても、魂の連れがない」ことを表している。
どれだけ大勢の人に囲まれていても寂しいのは、自分の心を分かってくれる
人がいないからである。

親子、夫婦、親友であっても、心の中を、すべて洗いざらい言えるだろうか。
何一つ隠さずに、さらけ出すことができるだろうか。
                                     
心の奥底を、よくよく見つめてみると、とても言葉に出せないものを、お互
いに持っている。もし、言ってしまったら、「そんなことを思っていたのか」
と、相手がびっくりし、嫌われてしまうだろう。

「あの人には、何でも言える」というのは、言える程度までならば、何でも言
えるということだ。

自分の悩みや苦しみを、すべて誰かに話すことができ、完全に分かってもら
えたならば、どれほど救われるかしれない。しかし、現実には不可能である。

「永遠の愛」を誓った夫婦でさえ、どれだけ行き違いが多いことか。話し合え
ば話し合うほど、お互いの感覚や価値観の違いが浮き彫りになってくるのは、
どうしようもない。心から一つになりたいと願いながら、分かり合えない悲し
さ、寂しさが、日ごとに募っていく。あからさまに言いたいことを言っている
とケンカになるので、家庭生活を維持するためには、違いを認めて、歩み寄ら
ねばならない。それには、かなりのエネルギーを必要とするから、相手に配慮
する気力がなくなった時が、破局である。

どんなに仲が良く、一緒に暮らしている相手であってでも、一人一人の本心
は、別の人には、のぞき見ることもできない。


自分にさえ知りえぬ、秘密の蔵のような心があると、仏教では説かれている。


寂しくて、何かをせずにおれないが、何をしても、紛らわすことができない。
まさに、底知れぬほど寂しいところが人生なのである。











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■トルストイが感嘆した「東洋の寓話」(4)■

【命の長さは、どれくらいか】

⇒白骨、猛虎、藤蔓



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旅人は、道に散らばっている白骨を見て驚いた。
この「白骨」は、「他人の死」を表している。

白骨を発見して驚いたというのは、私たちの日常、他人の死を、見たり聞い
たりした時の衝撃を例えたものである。

死ということは我々の驚きである。だから四十円(し・じゅうえん)というのを嫌ってヨン十円という、道で葬式や霊柩車に出会うと引き返す神経質な人がある。死というとゾーッとする人がある。葬式を見ると頭痛がするという人もある。死を恐れる
のは生物の本能なのだ。


死の影に驚く人々を区別して、釈迦は、「四馬(しば)の譬喩(ひゆ)」を説いている。

(1)鞭影(べん・えい)を見て驚く馬
(2)鞭(むち)、毛に触れて驚く馬
(3)鞭、肉に当たって驚く馬
(4)鞭、骨にこたえて驚く馬

第一の「鞭影を見て驚く馬」
とは、散っていく花や、火葬場から立ち昇る煙
を眺めて、やがて我が身にも襲いかかってくるであろう死に驚く人をいう。

第二の「鞭が毛に触れて驚く馬」とは、葬式の行列や霊柩車を見て、我が身
の一大事に驚く人。

第三の「鞭が肉に当たって驚く馬」とは、隣家や親戚の葬式や眼前の無常を
見て驚く人。

第四の「骨にこたえて驚く馬」とは、肉親を失って自分の死に驚く人、を例えたものである。

事故、殺人、テロ、自殺……。テレビや新聞で、人の死のニュースの流れな
い日はない。よく考えると、私たちも、旅人と同じように、白骨の広野にポッ
ネンと立っているようなものだ。


はたして自分自身は、この「四馬の響喩」の、どこに当てはまるだろうか。


猛虎に例えられたのは無常(自分の死)であり、追いかけてくるのは無常の
嵐の吹きすさんでいることを表している。

私たち一人一人の背後に、飢えた猛虎が迫っているのは、否定しようのない
事実である。











あるガン患者は、闘病記に、次のように記している。
* * * * * * * * * *

死は、突然にしかやって来ないといってもよい。いつ来ても、その当事者は
、突然に来たとしか感じないのである。生きることに安心しきってい
る心には、死に対する用意が、なにもできていないからである。

(中略)

死は、来るべからざる時でも、やってくる。来るべからざる場所にも、平気
でやってくる。ちょうど、きれいにそうじをした座敷に、土足のままで、
ズカズカと乗り込んでくる無法者のようなものである。それでは、あまり
ムチャである。しばらく待てといっても、決して、待とうとはしない。人
間の力では、どう止めることも、動かすこともできない怪物である。

※岸本英夫『死を見つめる心 ガンとたたかった十年間』講談社、1964年


旅人は、藤蔓につかまって、断崖にぶら下がっている。

この「藤蔓」は、人間の寿命を表している。

「白と黒のネズミ」に例えられたのは「昼と夜」のことである。二匹のネズミ
が交互に藤蔓をかじりながら回るように、私たちの生命を昼と夜とが、こもご
も循環しながら削っているのだ。

正月もお盆も祝日も、一刻の休みもなくかじり続けている。

やがて、白のネズミか、黒のネズミにかみ切られる時が必ず来る。


ある時、釈迦が修行者たちに命の長さについて尋ねている。

修行者の一人は、「命の長さは五、六日間でございます」。

次の一人は、「命の長さは五、六日なんてありません。まあ、食事を致す間く
らいのものでございます」。

次の一人は、「いやいや命の長さは一息つく間しかありません。吸った息が
出なかったらそれでおしまいです」。

釈迦は、最後の答えを大いに称賛し、

「そうだ、そなたの言うとおり、命の長さは吸った息が出るのを待たぬほどの
長さでしかないのだ。命の短さがだんだんに身にしみて感じられるようになる
ほど、人間は人間らしい生活を営むようになるのだ」
と教えている。










◇───────────────

■トルストイが感嘆した「東洋の寓話」(5)■

【死んだら、どうなるのか】

⇒深海、三匹の竜、五滴の蜂蜜



─────────────────◇

藤蔓が切れると同時に、旅人は、底の知れない深海へ落ちていく。

これを、「後生(ごしょう)の一大事」という。

後生とは、一息切れた死後のことである。

何かのことで吸った息が吐き出せなければ、吐いた息が吸えなければ、その
時から後生である。

いくら平均寿命が延びたといっても、死ななくなったのではない。l00パ
ーセントぶち当たらねはならぬのが後生である。

だから後生と関係のない人は一人もいない。

次に、一大事とは、どんなことをいわれるのか。仏教に、こんな話が伝えら
れている。


ある時、釈迦が托鉢中(たくはつ・ちゅう)、大きな橋の上で、辺りをはばかりながら一人の娘が、
しきりと袂(たもと)へ石を入れているのを見つけた。

自殺の準備に違いない、と知った釈迦は、きっそく近寄り、優しくその事情
を尋ねた。

相手が釈迦と分かった娘は、心を開いてこう打ち明けた。

「お恥ずかしいことですが、ある人を愛しましたが、今は捨てられてしまいま
した。世間の目は冷たく、お腹の子の将来などを考えますと、死んだほうがど
んなにましだろうと苦しみます。どうかこのまま死なせてくださいませ」

娘はよよと泣き崩れた。

その時、釈迦は、哀れに思い、こう諭している。

「愚かなそなたには、例えをもって教えよう。ある所に、毎日、重荷を積んだ
車を朝から晩まで引かねばならぬ牛がいたのだ。

つくづくその牛は思った。なぜオレは毎日、こんなに苦しまねばならぬのか、
自分を苦しめているものはいったい何なのかと考えた。そうだ!この車さえ
なければオレは苦しまなくてもよいのだと、牛は車を壊すことを決意した。

ある日、猛然と走って、車を大きな石に打ち当てて、木っ端微塵に壊してし
まったのだ。

ところが飼い主は、こんな乱暴な牛には、頑丈な車でなければまた壊される
と、やがて鋼鉄製の車を造ってきた。それは壊した車の何十倍、何百倍の重さ
であった。

その車で重荷を同じように毎日引かされ、以前の何百倍、何千倍苦しむよう
になった牛は、深く後悔したが後の祭りであった。

牛が、ちょうど、この車さえ壊せば苦しまなくてもよいと思ったのど同じよ
うに、そなたはこの肉体さえ壊せば楽になれると思っているのだろう。そなた
には分からないだろうが、死ねばもっと苦しい世界へ飛び込まなければならな
いのだ。その苦しみは、この世のどんな苦しみよりも恐ろしい苦しみなんだよ」


このように、釈迦は、すべての人に、死ねば取り返しのつかない一大事のあ
ることを教えている。これを後生(ごしょう)の一大事といわれる。


底の知れない深海は地獄であり、三匹の恐ろしい竜は、欲、怒り、愚痴の煩
悩を例えている。


青い竜は底の知れない欲の心を表している。

金が欲しい、物が欲しい、褒められたい、認められたい、もっともっととい
う限りない欲に、私たちは、どれだけ恐ろしいことを思い続けているだろうか。

あいつがいなければ、こいつがいなければ、あの人が失敗したら、この人が
死ねばと、どれだけの人を、心で蹴落とし、殺していることだろうか。

親であれ兄弟であれ、子供であれ恩人であれ、自分の欲のためには、どんな
恐ろしいことでも考える。

遺産相続で、兄弟や親戚同士、骨肉相食む争いは、この欲の心が引き起こす
惨劇である。

その欲の心が妨げられると、出てくるのが怒りの心であり、赤い竜で表され
ている。

あいつのせいで儲けそこなった、こいつのせいで恥をかかされたと、怒りの
心が燃え上がる。

離婚話にカッとなった男が、部屋に灯油をまき火をつけ、妻も子供も焼き払
った事件があったが、この怒りの心のなせるわざである。

次の愚痴とは、ねたみ、そねみ、うらみの心をいい、黒い竜で表されている。

とても欲を起こしても、怒ってみても、かなわぬ相手と知ると、ねたみ、そ
ねみ、うらみの心がわき上がってくる。

相手の才能や美貌、金や財産、名誉や地位をねたみ、そねみ、相手の不幸を
喜ぶ悪魔の心が出てくる。

災難に遭って苦しんでいる人に、「お気の毒に」と言いながら、心ではニヤ
リとする、恐ろしい心のことである。


釈迦は、これらの煩悩によって悪を造り続ける人間の実相を、

心常念悪・・・心常に悪を念じ
口常言悪・・・口常に悪を言い
身常行悪・・・身常に悪を行じ
曽無一善・・・曽(かつ)て一善無し

と、『大無量寿経(だい・むりょうじゅ・きょう)』に説き、堕つる地獄は、自ら造り、自ら独り堕ちていく世
界であることを、明らかにしている。











五滴の蜂蜜とは、人間の五欲を表している。

食べたい、飲みたいという食欲。

お金や財産を追い求める財欲。

男女の仲を満たそうとする色欲。

どんな人からでも褒めてもらいたい名誉欲。

少しでも寝ておりたいという睡眠欲。

これらの、五つの欲には限りがない。


細い藤蔓(ふじずる)にぶら下がり、危険極まりない状態にありながら、一切を忘れて、
蜂蜜を追い求めることしか考えていないのは、誰のことなのか。

「単なる作り話ではなく、誰でも納得のゆく真実だ」
と感嘆したトルストイは、「人間の実相」の例えの中に、紛れもない、自分の
姿を見たのであろう。












※「こころの朝」(木村耕一 編著、1万年堂出版、平成17年2005年 刊行)収録
第1章 道が開ける から抜粋
■トルストイが感嘆した「東洋の寓話」(1)~(5)■

※ なお、写真の挿入は、私が編集しました(原作には、ありません)

1 件のコメント:

sik さんのコメント...

初めまして
この絵、素晴らしいですね
私もどこかで売っていたら、ぜひ購入したい逸品です